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或る精神異常者
あるせいしんいじょうしゃ
作品ID2196
原題不明
著者ルヴェル モーリス
翻訳者田中 早苗
文字遣い新字新仮名
底本 「フランス怪談集」 河出文庫、河出書房新社
1989(平成元)年11月4日
入力者山田芳美
校正者しず
公開 / 更新2001-08-13 / 2014-09-17
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 彼は意地悪でもなく、といって、残忍酷薄な男でもなかった。ただ非常にかわった道楽をもっていたというだけのことだ。しかしその道楽もたいていやりつくしてしまって、いまでは、それにもなんら溌剌たる興味を感じないようになったのである。
 彼はたびたび劇場へでかけた。けれど、それは演技を観賞したり、オペラ・グラスで見物席を見まわしたりするのが目的ではなくて、そうしてたびたびいっているうちに、とつぜんに劇場の失火というようなめずらしい事件にでっくわすかもしれぬという、一種の期待からであった。
 また、ヌイエの市へでかけては、いろいろな見世物小舎をかたっぱしからあさりあるいたが、それもある突発的の災難、たとえば、猛獣使いが猛獣に噛みつかれるというような珍事を予期してのことであった。
 ひと頃、闘牛見物に熱中したこともあったが、じきにあいてしまった。牛を屠殺するあの方法があまりに規則正しく、あまりに自然に見えるのがあきたらなかった。それに負傷の牛の苦悶を見るのもいやであった。
 彼が真からあこがれたのは、思いもかけぬときにとつぜんわきおこる惨事、あるいは何か新奇な事変から生ずる溌剌たる、そして尖鋭ななやみそのものであった。実際、オペラ・コミック座が焼けた大火の晩に、彼は偶然そこへ観劇にいっていて、あの名状すべからざる大混雑の中から不思議にもけがひとつせずににげだしたのであった。それから、有名な猛獣使いのフレッドがライオンに喰い殺されたときは、檻のすぐそばでまざまざとその惨劇を見ていたのだ。
 ところが、それ以来彼は芝居や動物の見世物にぜんぜん興味をうしなってしまった。
 もとそんなものにばかり熱中していた彼が急に冷淡になったのを、友だちが不思議におもってそのわけをたずねると、彼はこんなふうに答えた。
「あんなところには、もう僕の見るものがなくなったよ。てんで興味がないね。我れ人ともにアッというようなものを僕は見たいんだ」
 芝居と見世物という二つの道楽――しかも十年もかよいつめてやっと渇望をみたしたのに、その楽しみが無くなってからというものは、彼は精神的にも肉体的にもひどく沈衰してしまって、そののち数カ月間、滅多に外出もしないようになった。
 ところがある日、パリの街々に、なん度刷りかの綺麗なポスターがはりだされた。そのポスターの図案は、くっきりと濃い海碧色を背景にして、一人の自転車乗りを点出したものであったが、まず一本の軌道が下へ向かってうねうねと幾重にも曲りくねって、しまいの方はリボンをたれたように垂直に地面へ落ちていた。そしてその軌道の頂上には、自転車乗りが今まさに駆けだそうとしてあいずを待っているのだが、軌道があんまり高いものだから、その自転車乗りは、ぽっちりと打ったひとつの点ほどにしか見えなかった。
 このポスターは自転車曲芸団の広告だったのである。
 その日の各…

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