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樹木とその葉
じゅもくとそのは
作品ID2211
副題02 草鞋の話旅の話
02 わらじのはなしたびのはなし
著者若山 牧水
文字遣い旧字旧仮名
底本 「若山牧水全集 第七卷」 雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日
入力者柴武志
校正者浅原庸子
公開 / 更新2001-04-04 / 2014-09-17
長さの目安約 17 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 私は草鞋を愛する、あの、枯れた藁で、柔かにまた巧みに、作られた草鞋を。
 あの草鞋を程よく兩足に穿きしめて大地の上に立つと、急に五軆の締まるのを感ずる。身軆の重みをしつかりと地の上に感じ、其處から發した筋肉の動きがまた實に快く四肢五軆に傳はつてゆくのを覺ゆる。
 呼吸は安らかに、やがて手足は順序よく動き出す。そして自分の身軆のために動かされた四邊の空氣が、いかにも心地よく自分の身軆に觸れて來る。

 机上の爲事に勞れた時、世間のいざこざの煩はしさに耐へきれなくなつた時、私はよく用もないのに草鞋を穿いて見る。
 二三度土を踏みしめてゐると、急に新しい血が身軆に湧いて、其儘玄關を出かけてゆく。實は、さうするまではよそに出懸けてゆくにも億劫なほど、疲れ果てゝゐた時なのである。
 そして二里なり三里なりの道をせつせと歩いて來ると、もう玄關口から子供の名を呼び立てるほど元氣になつてゐるのが常だ。
 身軆をこゞめて、よく足に合ふ樣に紐の具合を考へながら結ぶ時の新しい草鞋の味も忘れられない。足袋を通してしつくりと足の甲を締めつけるあの心持、立ち上つた時、じんなりと土から受取る時のあの心持。
 と同時に、よく自分の足に馴れて來て、穿いてゐるのだかゐないのだか解らぬほどになつた時の古びた草鞋も難有い。實をいふと、さうなつた時が最も足を痛めず、身軆を勞れしめぬ時なのである。
 ところが、私はその程度を越すことが屡々ある。いゝ草鞋だ、捨てるのが惜しい、と思ふと、二日も三日も、時とすると四五日にかけて一足の草鞋を穿かうとする。そして間々足を痛める。もうさうなるとよほどよく出來たものでも、何處にか破れが出來てゐるのだ。從つて足に無理がゆくのである。
 さうなつた草鞋を捨てる時がまたあはれである。いかにも此處まで道づれになつて來た友人にでも別れる樣なうら淋しい離別の心が湧く。
『では、左樣なら!』
 よくさう聲に出して言ひながら私はその古草鞋を道ばたの草むらの中に捨てる。獨り旅の時はことにさうである。
 私は九文半の足袋を穿く。さうした足に合ふ樣に小さな草鞋が田舍には極めて少ないだけに(都會には大小殆んど無くなつてゐるし)一層さうして捨て惜しむのかも知れない。
 で、これはよささうな草鞋だと見ると二三足一度に買つて、あとの一二足をば幾日となく腰に結びつけて歩くのである。もつともこれは幾日とない野越え山越えの旅の時の話であるが。

 さうした旅をツイ此間私はやつて來た。
 富士の裾野の一部を通つて、所謂五湖を[#挿絵]り、甲府の盆地に出で、汽車で富士見高原に在る小淵澤驛までゆき、其處から念場が原といふ廣い/\原にかゝつた。八ヶ岳の表の裾野に當るものでよく人のいふ富士見高原なども謂はゞこの一部をなすものかも知れぬ。八里四方の廣さがあると土地の人は言つてゐた。その原を通り越すと今度は信州路…

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