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樹木とその葉
じゅもくとそのは
作品ID2219
副題26 桃の実
26 もものみ
著者若山 牧水
文字遣い旧字旧仮名
底本 「若山牧水全集 第七卷」 雄鷄社
1958(昭和33)年11月30日
入力者柴武志
校正者林幸雄
公開 / 更新2001-06-13 / 2014-09-17
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 武藏から上野へかけて平原を横切つて汽車が碓氷にかゝらうとする、その左手の車窓に沿うて仰がるゝ妙義山の大岩壁は確かに信越線中での一異景である。丁度そのあたり、横川驛で機關車は電氣に代る。そして十分か十五分の停車時間がある。辨當賣の喧しい聲々の間に窓を開いて仰ぐだけに、空を限つて聳え立つたこの異樣な山の姿が一層旅心地を新たにする樣だ。
 驛から發車して間もなく、同じ左手にかなり強い角度を以て碓氷川へ傾斜してゐる桑畑か何ぞの中に坂本といふ舊い宿場が見下さるゝ。今は横川驛の影響でゝもあるか、幾らか賑つて居る樣に見ゆるが、まだ汽車が蒸氣機關車の煤煙と共に碓氷の隧道に走り入つてゐた頃は、まるで白晒れた一本の脊髓骨の捨てゝある樣な、荒れ果てた古驛であつた。明治四十一年の眞夏、私は輕井澤を午後に立つて碓氷の舊道を歩いて越え、日沒頃にその坂本に入つた。碓氷峠を挾んで西と東、輕井澤と共に昔の中山道では時めいた宿場だつたに相違ない其處なので一軒位ゐはあるであらうとあてにして來た宿屋がまるで無かつた。ただ一軒、蔦屋といつたと思ふ、木賃宿があつた。爺さんと婆さんとに一度斷られたのを無理に頼んで泊めて貰ふことになつた。
 酒を取つて來て貰つたが酸くて飮めない。麥酒を頼んだが、そんな物はないといつて取合はない。せめて葡萄酒でもと今度は自分で探しに出たが、全く何も無かつた。そして代りに燒酎を買つて來た。酸くないだけでも遙かにましであつた。夏も火を斷たぬ大圍爐裡で爺さんを相手に飮んで床に入つた。宿は爺婆だけで、他に誰もゐなかつた。息子も娘もあるのだが、土地には何もする用がないので皆出稼ぎに行つてゐるのださうだ。
 ほんのとろ/\としたと思ふと眼が覺めた。湧く樣な蚤の襲撃である。一度眼が覺めたと共にもうどうしても眠れない。時計を見るとまだ宵の口だ。私は戸をあけて、月の出た石ころ道を少し歩き下つてまた燒酎を買つて來た。も少し醉つて眠らうとしたのである。
 翌朝、まだ月のあるうちにその宿を立つた。そして近道をとつて妙義山へ登らうとした。一度碓氷川を渡つて少しゆくと、また一つの谷を渡らねばならなかつた。其處には橋が流れ落ちてゐた。二三日前の豪雨のためで、まだ其時の水量が相當に殘つてゐた。殘りは爺さんの置土産にしようと思つて買つて來た燒酎をあらかた私は飮んでしまつてゐたので、其頃もまだ充分に醉つてゐた。普通ならばあと戻りをしたであらうが、その醉が躊躇なく私を裸體にした。そして頭に着物と荷物とを押し頂いて、しかも下駄を履いたまゝその谷川の瀬の中へ入つて行つた。
 山谷の事で、流の中に隱れてゐる石は二抱へ三抱への荒石ばかり、少年の頃の經驗からその岩の頭を拾つて足を運ばうとしてゐたのであつたが、洪水の名殘は思ひのほかに激しく、僅か七八歩も踏み出したと思ふと、忽ち私は途方に暮れた。そして自信力の失せると共に…

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