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ボヘミアの醜聞
ボヘミアのしゅうぶん |
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作品ID | 226 |
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原題 | A Scandal in Bohemia |
著者 | ドイル アーサー・コナン Ⓦ |
翻訳者 | 大久保 ゆう Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
入力者 | 大久保ゆう |
校正者 | |
公開 / 更新 | 1998-12-28 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 38 ページ(500字/頁で計算) |
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一
シャーロック・ホームズにとって、彼女はいつも『かの女《おんな》』であった。他の呼称などつゆほども聞かない。彼女の前ではどんな女性も影を潜める、とでも考えているのであろう。だがアイリーン・アドラーに恋慕の情といったものを抱いているのではない。あらゆる情、とりわけ恋というものは、ホームズの精神にとっては、到底受け入れることができない。精神を冷徹で狂いなく、それでいて偏りがまったくないままに保たねばならないからだ。個人的な考えだが、推理と観察にかけて、ホームズは世界一の完全無欠な機械である。けれども恋愛向きではない。斜に構えねば、人の情については語れない。観察にはもってこいだ――情こそが人の動機や行動のヴェールをはぎ取る。だが、とぎすまされた推理の場合、ひとたびそのようなものが厳密に調整された心に入りこめば、乱す種となってしまう。そうすればどんな思考の結果も疑わしい。精密機器に砂が混入することよりも、所持する高性能の拡大鏡にひびが入ることよりも、ホームズのような心に強い情緒が芽生えることの方が、悩ましいことなのである。だがそんなホームズにも、ひとりだけ女性というものがあった。その女こそ、かつてのアイリーン・アドラー、まことしやかな噂の多い女だ。
近頃、ホームズとは会っていなかった。私の結婚が二人を疎遠にしていた。結婚生活はまさに至福で、初めて所帯主になったこともあり、私の熱意はすっかり家庭中心に注がれていた。かたやホームズと言えば、持ち前のボヘミアン気質から世俗を避け、ベイカー街の我らが下宿にとどまり、古書の山にうずもれ、コカインと覇気を交互に繰り返していた。つまり麻薬へ溺れたり、持ち前の洞察力で事件に乗り出したりである。例のごとく犯罪の研究に没頭し、多大なる才と人並みならぬ観察力を駆使して、警察でさえ絶望的と匙を投げた事件にも糸口を見つけ、謎を解き明かしていた。折々、ホームズの活動を風のうわさに聞くことがある。トリェポーフ殺人事件でオデッサに招聘されたとか、トリンコマリィでアトキンソン兄弟の奇妙な惨劇を解決したとか、ひいてはオランダ王室のために秘密裏に任務を遂行したとか。しかし私も日刊新聞の一読者として知るのみで、かつて友人でありパートナーであった男のことを、直接知っていたわけではなかった。
ある夜、一八八八年三月二十日のことだ。私は元の開業医に戻っていたのだが、患者の往診の帰途、ベイカー街を通りがかった。あの見慣れた戸口を見ると、求婚時代や、陰惨な『緋のエチュード』事件のことがいつも心に甦ってくる。私はふとホームズに会いたい、人並みならぬ能力を発揮するのを見たい、そんな衝動に駆られた。ホームズの部屋はあかあかと光がともり、私が見上げていると、ホームズの細く長い影法師が二度も窓に映った。うつむき、手を後ろで組み、部屋をせかせかと力強く歩き回っている。…