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![]() ゆび |
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作品ID | 2309 |
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著者 | 佐左木 俊郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「佐左木俊郎選集」 英宝社 1984(昭和59)年4月14日 |
初出 | 「文学時代」1929(昭和4)年6月号 |
入力者 | 大野晋 |
校正者 | 鈴木伸吾 |
公開 / 更新 | 1999-09-24 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 5 ページ(500字/頁で計算) |
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一
彼女は銀座裏で一匹のすっぽんを買った。彼女のそれを大型の鰐皮製のオペラ・バッグに落とし込んで、銀座のペーヴメントに出た。
宵の銀座は賑っていた。彼女は人の肩を押し分けるようにしながら、尾張町の停留所の方へ歩いた。店を開きかけた露店商人が客を集めようとあせっている。赤、青、薄紫の燈光が揺れる。足音が乱れる。
「もしもし! 奥さん。」
彼女は誰かに呼びかけられたような気がして立ち止まった。彼女の肩に、無数の肩が突き当たり、擦り合って行った。鼠色の夏外套、鮮緑の錦紗。薄茶のスプリング・コオト。清新な麦藁帽子。ドルセイの濃厚な香気。そして爽かな夜気が冷え冷えと、濁って沈澱した昼の空気を澄まして行った。
錯覚だったのだ。誰も呼んではいなかった。鼠色のハンチングを眼深に冠った蒼白く長い顔の男が、薄茶の夏外套に包んだ身体を、彼女の右肩に擦り寄せるようにして立っているだけだった。
彼女はその男から逃れるようにして、車道を越えて向こう側の舗石道に渡ろうとした。電車がピストン・ロットのように、右から左へ、左から右へと、矢継ぎ早に掠めて行った。青バスが唸って行く。円タクの行列だ。彼女は急に省線で帰ることにした。円タクをやめて。
省線電車は割に混んでいた。併し彼女はどうにか腰をおろして、その左脇にオペラ・バッグを置くことが出来た。
神田駅に近付いたとき、彼女は、自分の左脇に腰をおろしている男が、顔全体で痛さを堪えながら指先を握っているのに気がついた。その指の間からはだらだらと血が滴っていた。
「まあ! どうなさったんです?」
彼女は、眉を寄せて、自分のハンカチを出してやった。
「あ、済みません。どうも、あの扉で……」
彼は礼を言いながら血に染まった指先をハンカチで包んだ。食指の一節はぐしゃぐしゃに切れて無くなっていた。
「まあ、もげたんで御座いますか。」
「え。あの扉でもって…… 神田ですね。や、どうも……」
男は戸口へ駈けて行った。鰐皮製のオペラ・バッグがその男の席に倒れた。彼女も、それを取って乗り換えのために戸口へ立って行った。エンジン装置の自働開閉扉が、するするっと開いた。
二
彼女は、すっぽんを洗面器に入れて、自分の室に這入って行った。
彼女は洗面器の中の、すっぽんを視詰めながら、首を出すのを待った。すっぽんの生血を取るのには、その首を出すのを待っていて、鋭利な刃物でそれを切るのだと教えられていたからであった。
彼女は電車の中での、自働扉に指を噛まれた男のことを思い出した。あの男の指のように、このすっぽんの首がぐしゃぐしゃに切断されるのだ。彼女はそれを考えると厭な気がした。
併し彼女は、右手に、鋭利な大型の木鋏を握って、すっぽんが首を出すのを待たなければならなかった。これだけは他人に頼むわけにはいかないような気がした…