えあ草紙・青空図書館 - 作品カード
楽天Kobo表紙検索
![]() はなものがたり |
|
作品ID | 2331 |
---|---|
著者 | 寺田 寅彦 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「寺田寅彦随筆集 第一巻」 岩波文庫、岩波書店 1947(昭和22)年2月5日、1963(昭和38)年10月16日第28刷改版 |
初出 | 「ホトトギス」1908(明治41)年10月 |
入力者 | 田辺浩昭 |
校正者 | 田中敬三 |
公開 / 更新 | 1999-11-24 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 23 ページ(500字/頁で計算) |
広告
広告
一 昼顔
いくつぐらいの時であったかたしかには覚えぬが、自分が小さい時の事である。 宅の前を流れている濁った堀川に沿うて半町ぐらい上ると川は左に折れて旧城のすその茂みに分け入る。 その城に向こうたこちらの岸に広いあき地があった。 維新前には藩の調練場であったのが、そのころは県庁の所属になったままで荒れ地になっていた。 一面の砂地に雑草が所まだらにおい茂りところどころ昼顔が咲いていた。 近辺の子供はここをいい遊び場所にして柵の破れから出入りしていたがとがめる者もなかった。 夏の夕方はめいめいに長い竹ざおを肩にしてあき地へ出かける。 どこからともなくたくさんの蝙蝠が蚊を食いに出て、空を低く飛びかわすのを、竹ざおを振るうてはたたき落とすのである。 風のないけむったような宵闇に、蝙蝠を呼ぶ声が対岸の城の石垣に反響して暗い川上に消えて行く。 「蝙蝠来い。 水飲ましょ。 そっちの水にがいぞ」とあちらこちらに声がして時々竹ざおの空を切る力ない音がヒューと鳴っている。 にぎやかなようで言い知らぬさびしさがこもっている。 蝙蝠の出さかるのは宵の口で、おそくなるに従って一つ減り二つ減りどことなく消えるようにいなくなってしまう。 すると子供らも散り散りに帰って行く。 あとはしんとして死んだような空気が広場をとざしてしまうのである。 いつか塒に迷うた蝙蝠を追うて荒れ地のすみまで行ったが、ふと気がついて見るとあたりにはだれもいぬ。 仲間も帰ったか声もせぬ。 川向こうを見ると城の石垣の上に鬱然と茂った榎がやみの空に物恐ろしく広がって汀の茂みはまっ黒に眠っている。 足をあげると草の露がひやりとする。 名状のできぬ暗い恐ろしい感じに襲われて夢中に駆け出して帰って来た事もあった。 広場の片すみに高く小砂を盛り上げた土手のようなものがあった。 自分らはこれを天文台と名づけていたが、実は昔の射的場の玉よけの跡であったので時々砂の中から長い鉛玉を掘り出す事があった。 年上の子供はこの砂山によじ登ってはすべり落ちる。 時々戦争ごっこもやった。 賊軍が天文台の上に軍旗を守っていると官軍が攻め登る。 自分もこの軍勢の中に加わるのであったが、どうしてもこの砂山の頂まで登る事ができなかった。 いつもよく自分をいじめた年上の者らは苦もなく駆け上がって上から弱虫とあざける。 「早く登って来い、ここから東京が見えるよ」などと言って笑った。 くやしいので懸命に登りかけると、砂は足もとからくずれ、力草と頼む昼顔はもろくちぎれてすべりおちる。 砂山の上から賊軍が手を打って笑うた。 しかしどうしても登りたいという一念は幼い胸に巣をくうた。 ある時は夢にこの天文台に登りかけてどうしても登れず、もがいて泣き、母に起こされ蒲団の上にすわってまだ泣いた事さえあった。 「お前はまだ小さいから登れないが、今に大きくなっ…