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比較言語学における統計的研究法の可能性について
ひかくげんごがくにおけるとうけいてきけんきゅうほうのかのうせいについて |
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作品ID | 2345 |
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著者 | 寺田 寅彦 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「寺田寅彦随筆集 第二巻」 岩波文庫、岩波書店 1947(昭和22)年9月10日、1964(昭和39)年1月16日第22刷改版 |
初出 | 「思想」1928(昭和3)年3月 |
入力者 | (株)モモ |
校正者 | かとうかおり |
公開 / 更新 | 2000-10-03 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 34 ページ(500字/頁で計算) |
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言語の不思議は早くから自分の頭の中にかなり根深い疑問の種を植え付けていたもののようである。六七歳のころ、始めて従兄から英語の手ほどきを教えられた時に、最初に出会ったセンテンスは、たしか「猿が手を持つ」というのであった。その時、まず冠詞というものの「存在理由」がはなはだしく不可解なものに思われた。The(当時かなで書くとおりにジーと発音していた)が、至るところ文章の始めごとに繰り返されて出現する事が奇妙に強い印象を与えた事を記憶する。自分の手のことを「持つ」というのもおかしかったが、これが「手を」の前に来る事がはなはだしく不思議であった。
今になって考えてみると、このジー、ジーという音の繰り返しは、当時の幼い頭の中に、まだ夢にも知らなかった、遠い遠い所にある、一つの別な珍しい世界からのかすかなおとずれのように響いたのかもしれない。それはとにかく、当時に感じた漠然たる不思議の感じは、年を経て外国語に対する知識の増すとともに、次第に増しはしても、決して減りはしなかった。ただそれが次第に具体的な疑問の形をとって意識されて来たのである。しかし四十余年前に漠然と感ぜられた疑問は今日に至っても依然たる不可解の疑問である。そして少しばかり言語に関する学者の所説などを読んでみても、なかなか簡単にこの疑問の答解は得られそうもないように思われた。
英語やドイツ語とだんだんに教わるうちに、しばしば日本語とよく似た音をもった同義の語に出会う事がある。これは偶然であろうとは思っても、そのことごとくが偶然の暗合であるという事を証明する事もかなりにむつかしそうに思われた。
自分のまだ学生時代に、ある学者が、日本の神話の舞台をギリシア近辺へ持って行こうとする大胆な説を公にして問題になった事がある。自分は直接にその所説の全部を読んだわけではなかったが、その説の一部をどこかで瞥見して、いろいろその所説に対する疑いを起こした事もあった。しかし単に説の奇矯であり、常識的に考えてありそうもないというだけの理由から、この説を初めから問題ともしないでいたずらに嘲笑の的にしようとする人のみ多い事にも疑いをいだかないわけには行かなかった。少なくも東欧の一部と極東日本との間に万一存在したかもしれないなんらかの古い関係の可能性という事までも、なんの考察もなしに否定せんとする人のあまりに多いのに驚いた。もちろん当時これに関する言語学者間の意見がいかなるものであったか自分は知らない。ここで自分のいうのは、言語学者でない一般有識階級と称するものについてである。とにかくギリシア古代と日本古代との間になんらの交渉もなかったという事を科学的に証明する事をはたしてだれがあえてしうるであろうと疑ったこともある。
十年ほど前に少しばかりロシア語の初歩を学んだ事もあった。それがために「言語の不思議」に対する自分の好奇心と疑…