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量的と質的と統計的と
りょうてきとしつてきととうけいてきと
作品ID2350
著者寺田 寅彦
文字遣い新字新仮名
底本 「寺田寅彦随筆集 第三巻」 岩波文庫、岩波書店
1948(昭和23)年5月15日、1963(昭和38)年4月16日第20刷改版
初出「科学」1931(昭和6)年10月
入力者(株)モモ
校正者かとうかおり
公開 / 更新2000-10-03 / 2014-09-17
長さの目安約 16 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 古代ギリシアの哲学者の自然観照ならびに考察の方法とその結果には往々現代の物理学者、化学者のそれと、少なくも範疇的には同様なものがあった。特にルクレチウスによって後世に伝えられたエピキュリアン派の所説中には、そういうものが数え切れないほどにあるようである。おそらくこれらの所説も、全部がロイキッポスやデモクリトスなどが創成したものではなくて、もっともっと古い昔からおぼろげな形で伝わり進化したものに根を引いているのであろうと想像される。しかしこれら哲学者の植え付けた種子が長い中世の冬眠期の後に、急に復興して現代科学の若葉を出し始めたのは、もちろん一般的時代精神の発現の一つの相には相違ない。しかし復興期の学者と古代ギリシアの学者との本質的な相違は、後者特にアテンの学派が「実験」を賤しい業として手を触れなかったのに反して、前者がそういう偏見を脱却して、ほんとうの意味のエキスペリメントを始めた点にあると思われる。ガリレー、トリツェリ、ヴィヴィアニ、オットー・フォン・ゲーリケ、フック、ボイルなどといったような人がはなはだ粗末な今から見れば子供のおもちゃのような道具を使って、それで生きた天然と格闘して、しかして驚くべき重大な画期的実験を矢継ぎばやに行なったのがそもそもの始まりである。
 この歴史的事実は往々、「質的の研究が量的の研究に変わったために、そこで始めてほんとうの科学が初まった」というお題目のような命題の前提として引用される。これは、この言葉の意味の解釈次第ではまさにそのとおりであるが、しかしこういう簡単な、わずか一二行の文句で表わされた事はとかく誤解され誤伝されるものである。いったいにこの種類の誤伝と誤解の結果は往々不幸にして有害なる影響を科学自身の進展に及ぼす事がある。それはその命題がポピュラーでそうして伝統的権威の高圧をきかせうる場合において特にはなはだしいのである。
 量的というだけならば古代民族の天文学的測定ははなはだ量的なものであった。しかし彼らは実験はあまりしなかった。上記の科学の黎明期におけるこれら実験の中のあるものはいくらか量的と言われうるものであったが、しかしこれらのすべては必ずしも今ごろ言うような量的ではなかったのである。この時代として最重要であったことは、「卵大」のガラス球についた「藁ぐらいの大きさの」管を水中に入れて「あたためると」ぶくぶく「泡が出」、冷やすと水が管中に「上る」ことであった。また、銅球の中の水を強く吸い出すと急に高い音を立てて球がひしげたりした「こと」であった。あるいはむしろこういう「実験」をしてみようと思い立ったこと、それを実行した事であった。水が上ることが知られさえすればそれが何寸上ったかを計りたくなり、ポンプを引くのにひどく力がいればそれが何人力だか計りたくなり、そうしてそれを計る事ならばだれにでもできるのである。

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