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鐘に釁る
かねにちぬる
作品ID2353
著者寺田 寅彦
文字遣い新字新仮名
底本 「寺田寅彦随筆集 第四巻」 岩波文庫、岩波書店
1948(昭和23)年5月15日、1963(昭和38)年5月16日第20刷改版
初出「応用物理」1933(昭和8)年1月
入力者(株)モモ
校正者かとうかおり
公開 / 更新2000-10-03 / 2014-09-17
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 昔シナで鐘を鋳た後にこれに牛羊の鮮血を塗ったことが伝えられている。しかしそれがいかなる意味の作業であったかはたしかにはわからないらしい。この事について幸田露伴博士の教えを請うたが、同博士がいろいろシナの書物を渉猟された結果によると釁るという文字は犠牲の血をもって祭典を挙行するという意味に使われた場合が多いようであるが、しかしとにかく、一書には鐘を鋳た後に羊の血をもってその裂罅に塗るという意味に使われているそうである。孟子にはそれが牛の血を塗ることになっているのである。
 鐘に血を塗るというのは、本来はおそらく犠牲の血によって物を祭り清めるという宗教的の意義しかなかったのであろうが、しかし特に鐘の割れ目に塗るということがあったとすると、それは何かしら割れ目のために生じた鐘の欠点を補正するという意味があったのではないかと疑わせる。そうしないと特に割れ目に塗るという言葉が無意味になってしまうのである。
 もし空想をたくましゅうすることを許されれば、最初は宗教的儀式としてやっていた事が偶然鐘の音に対してある有利な効果のある事を発見し、次いでそれが鋳物の裂罅から来る音響学的欠点を修正するためだということに考え及び、そうして今度は意識的にそういう作業を施すようになったのかもしれないと思われるのである。
 現在のわれわれの分子物理学上の知識から考えて、こういう想像は必ずしもそう乱暴なものではないということは次のような考察をすれば、何人にも一応は首肯されるであろうと思う。
 金属と油脂類との間の吸着力の著しいことは日常の経験からもよく知られている。真鍮などのみがいた鏡面を水で完全に湿すのが困難であるのは、目に見えない油脂の皮膜のためである。こういう皮膜がいわゆる boundary lubrication の作用をして面の固体摩擦を著しく減少することは Rayleigh, Hardy, Langmuir, Devaux らの研究によって明らかになったことである。こういう皮膜は多くの場合に一分子だけの厚さをもつものであるから、割れ目の間隙が 10-8[#「-8」は上付き小文字]cm 程度である場合にこの種の皮膜ができればそれによって間隙は充填され、その皮膜はもはや流体としてではなく固体のごとき作用をして、音波が割れ目の面で反射され分散されるのを防止し、鐘の振動を完全にすることができるであろうと想像されうる。しかし黄銅の場合にこの種の単分子皮膜が固体面に沿うて自由に伸展し、吸着した湿気やガスを駆逐しつつ裂罅を埋めるかどうかは実験しなければ確かなことはわからない。しかし他の多くのよく知られた実験の結果から推定してたぶん間違いないであろうと思われる。
 割れ目があまり大きくては困るが、しかし必ずしも 10-8[#「-8」は上付き小文字]や 10-7[#「-7」は上付き小文字]でなく…

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