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![]() しらねさんみゃくじゅうだんき |
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作品ID | 2427 |
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著者 | 小島 烏水 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「山岳紀行文集 日本アルプス」 岩波文庫、岩波書店 1992(平成4)年7月16日 |
入力者 | 大野晋 |
校正者 | 伊藤時也 |
公開 / 更新 | 2009-09-22 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 62 ページ(500字/頁で計算) |
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緒言
前年雨のために失敗した白峰山登りを、再びするために、今年(四十一年)は七月下旬高頭式、田村政七両氏と共に鰍沢へ入った、宿屋は粉屋であった、夕飯の終るころ、向い合った室から、一人の青年が入って来た、私たちが、先刻から頻に白峰、白峰と話すのを聞いて、もしやそれかと思って、宿帳で、姓名を見てそれと知った、というので同行を申し込まれたのである、大阪高等工業学校の生徒、倉橋藤次郎氏である、一人でも同行者を増した心強さは、言うまでもない。
翌朝例の通り、人夫を[#挿絵]って、西山峠を越えた、妙法寺の裏から、去年とは違った道――北海とも、柳川通りともいうそうだ――を登った、そうしてデッチョウの茶屋の前で、去年の登り道と一ツに合った。
このたびは霧がなかった、紫の花咲くクカイ草、蘭に似た黄色の花を垂れるミヤマオダマキが、肉皮脱落して白く立っている樅の木を、遠く見て、路傍にしなやかに俯向いている、熊笹が路には多い。
四方の切れた谷を隔てて、近くに古生層の源氏山を見る、去年は、どうしてこの山が、気が注かなかったろうと思う。
峠が上り下りして、森らしくなる、杜鵑がしきりに啼く、湯治の客が、運んだ飜ぼれ種子からであろうが、栂の大木の下に、菜の花が、いじけながらも、黄色に二株ばかり咲いていた、時は七月末、二千米突の峠、針葉樹林の蔭で!
苔一面の幹を見せて、森の樹の蔭には、蘭が生え、シシウド、白山女郎花、衣笠草などが見える、しかし存外、平凡な峠だ、樹も思ったより小さいし、谷は至って浅い、去年の霧の中に炙り出されたものは、梢一本さえ、どこに深く秘されたのだろう、夢から醒めたようだ、これじゃあ、森林などというほどではなかった、霧の嘘つき! と嘲った。
温泉はやはり、新湯に泊まった、去年(四十年)秋、笹子峠のトンネルを崩壊し、石和の町を白沙の巷に化して、多くの人死を生じさせた洪水は、この山奥に入ると、いかばかりひどく荒れたかということが解る。温泉附近の路が酷くくずれている、宿の前で嗽いをした筧の水などは、埋没してしまっている。
例の晃平を主として、四人の猟師を雇って出発した。
早川から黒河内、榛の河原、それから白剥山と、前年の路を辿ったときに、洪水からの荒廃は一層甚だしかった、まるで変っている、川筋はもとより、山腹の道などは、捩じり切って、棄てたように谷に落ちている、大村晃平、同富基、中村宗義などいう、土地で名うての猟師を連れたのだが、どのくらい路を損したり、無益に上下したかは解らぬ。
白剥山の入口などは、解らなくて、森の中を一行が、離れ離れに迷うばかり、滝上りまでもやった、一時は絶望に近かった、しかし山腹に辿りついてからは、去年の路が、微かに見分けが出来た、頂は存外変りがなかった。
そうして一行は東俣谷の、オリットの小舎に着いた、私が恐い、怖ろしい念い…