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瑪瑙盤
めのうばん
作品ID24344
著者林 芙美子
文字遣い新字旧仮名
底本 「林芙美子全集 第十五巻」 文泉堂出版
1977(昭和52)年4月20日
入力者林幸雄
校正者花田泰治郎
公開 / 更新2005-09-07 / 2014-09-18
長さの目安約 25 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 1 ミツシヱルは魚ばかり食べたがる女であつた。
 魚屋の前を通ると、牡蛎籠の上に一列に並んでゐるレモンの粒々に、鼻をクンクンさせたり鮫の白い切り口を、何時までも指で押してみたりしては買へもせぬ癖に、何か口の中でブツブツものをいひながら、立ちつくしてゐることがあつた。
 ミツシヱルは南フランスの生れで、髪は南国風に黒つぽい色をしてゐる。
「小さいお嬢さん! 私しのびなき」
 寒子のアパルトへ来ると、かうして泣いて見せるのが、ミツシヱルの得意である。
「又、しのび泣きなの、困るわね」
 ミツシヱルは、寒子の描きかけてゐる画架に凭れると、暫時は、しのびなきの話に耽ける。
「貴女はムッシュウ河下に手紙を出しますか、みつちやんしのびなきと云つて下さいね」
 ミツシヱルのいふしのびなきの唄は、さだめし、此の河下の残した憶ひ出なのであらう。時々思ひ出したやうに、ミツシヱルは、河下の話をしては唄をうたふ。
雨は降る降る
じやうが島の磯に
りきやう鼠の雨が降る
雨は真珠か
夜明けの霧か
それとも妾のしのびなき
 片言混りな唄ひ振りではあつたが、切々たるミツシヱルの声は、どうかすると、寒子の郷愁をあふりたてた。
「もう止めてよ、仕事の邪魔しちやア駄目ぢやないの‥‥」
 すると、唄を止めたミツシヱルは、部屋隅の寝台にひつくり返つて、
「ムッシュウ河下は、そりやアとても魚をよく食べる男だつたんですよ、鯛を買つて来ると、波のやうな型に切つて生のまゝで食べたり、日本ソースで赤く煮たりして、私に御馳走してくれたのですよ」
 ミツシヱルが、真面目に、別れた東洋の男の話をすると、寒子もつひほろりとなつて問ひかけて行つた。
「その河下つて‥‥日本の何処のひとなのさ」
「河下さん、神戸でホテルをしてゐるんですつて、――もう大きい奥さんもあります。私大変悲しい」
 国情の違つたこの女の言葉が、何処まで本心なのか、まだ日の浅い巴里住ひの寒子にはよく呑み込めなかつたが、来る度に河下のしのびなきの話をするところを見ると、よほど心に残つた男であるらしかつた。

 2 窓を開けておく日が多くなつた。
 寒子は、夜の九時ごろまでも続くパリの長い白暮が好きで、モンパルナツスの墓場の間の小道をよく歩いた。
 割栗石の人道には、墓場の塀に沿つて、竜の髭に似た[#「似た」は底本では「以た」]草が繁つてゐた。マロニヱの花は花でまるで白い蟻のやうに散つて、実に女性的なたそがれが続く。
 さうして、――並木の小道がやつと途切れて電車通りへ出ると、寒子はポケットの鍵をぢやらぢやらさせながら、ミツシヱルの唄ふ城ヶ島の唄を何時か思ひ浮かべてゐた。
「ミツシヱルの処へでも遊びに出かけてやらうかしら‥‥」
 パリへ来て、別に友達もない寒子は、長い白暮を一寸もてあましコツコツ自分の靴音を楽しみながら歩いた。
 灰色の女学校がある、石…

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