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清修館挿話
せいしゅうかんそうわ
作品ID24346
著者林 芙美子
文字遣い新字新仮名
底本 「濡れた葦」 東方社
1956(昭和31)年11月10日
入力者林幸雄
校正者花田泰治郎
公開 / 更新2005-08-24 / 2014-09-18
長さの目安約 21 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 1 長い夏休みを終えて、東京へ帰つた谷村さんは、郊外の下宿を引き上げると、学校に近い街裏に下宿を見つけて越しました。
 今までのように、朝起きると窓を開けて、櫟林を眺めたり、バンガロの美しい娘さんのピアノを聞いたりと云う風な、そんな訳にはゆきませんでしたが、夕方窓を開けると、低い街の灯がキラキラして、秋らしい街の風景が、まことに眼に凉しく、大都会に住んでいるほこらしさが胸に来ました。
 谷村さんは、根が山の寺の息子でありましたせいか、食物について不平をならべるような事はありませんでした。ですが、越して来た翌朝の、蜆汁の中に長い長い女の髪の毛がはいつているのには神経の太い谷村さんも、一寸うんざりしてしまいました。
 谷村さんは、強度の近眼鏡をずり上げて、まず、その髪の毛が、太つちよの下女のであろうか、干鮭のようなスガメの下女のであろうかと、箸を持つた手でそツと蜆汁の中から引き上げて見ました。

 谷村さんは、寺の息子でありながら、医学の方を一生懸命勉強していたのであります。しかし外科の方が大変好きなのでありましたので部屋の本箱の上には、外科につかう色々なメスがまるで優勝カップのように並べてありました。
 谷村さんは、まず、御飯を頬ばつたまゝ、その長い髪の毛を小さく剪つて、顕微鏡でそつと覗いて見ました。かなり鉱物性の油がついています。鎖のような細胞が、芋虫のようにひつくり返つて、さながら「私は太つちよの下女の方でございますよ」と、云つているようでありました。
 谷村さんはムカムカする胸をおさえて、出がらしの冷い番茶をガブガブ呑み込むと、そゝくさと、帽子を被つて、広い廊下を歩いて玄関へ出ました。
 玄関では、丁度太つちよの下女が、谷村さんの靴を磨いていました。
 谷村さんは、昨日越して来た時に一人ずつにやつた五拾銭玉のきゝめであつたのであろうと思いましたが、蜆汁の中の長い髪の毛の事を思うと、ふと憂愁がこみ上げて来ました。
「お早うございます。昨夜はよくお休みになれましたか?」
「なぜ?」
「でも……初めて越して来た方は眠られないものだそうでございますよ」
「そうかね僕はよく寝られた」
 谷村さんはグッと押し上げる不快さを隠して、太つちよの下女がそろえてくれた靴に足をかけました。と、まだその下女は朝の髪に櫛を入れないのでありましよう、蓬々として、朝風に何日も洗わない臭い匂いをたゞよわせていました。谷村さんは何気なく胸に風呂敷包みをズリ上げてまるで夢でも見ているような気持ちで、ちよいと下女の髪の毛を一本抜いたのであります。
「アラ! まあ、御冗談を……」
 下女はさつと顔を赤らめて、両手で乳房を抱くと、キッキッと笑つて台所の方へ走つて隠れて行きました。
 谷村さんは抜いた一筋の毛を捨てもやらずに、持つたまゝ呆やり立つていましたが、丁度その時お上さんが帳場の方から出て…

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