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多摩川
たまがわ
作品ID24351
著者林 芙美子
文字遣い旧字旧仮名
底本 「女優記」 新潮社
1940(昭和15)年8月13日
入力者林幸雄
校正者花田泰治郎
公開 / 更新2005-09-09 / 2014-09-18
長さの目安約 20 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 あまり暑いので、津田は洗面所へ顏を洗ひに行つた。洗面所には大きい窓があつたが、今日はどんよりして風ひとつない。むしむしした午後である。
「津田さん、お電話ですよ」
 津田が呆んやり窓の外を眺めてゐると、女給仕が津田を呼びに來た。オフイスへ戻つて卓上の電話へ耳をあてると、
「津田さん? 津田さんでいらつしやいますか?」
 と、女の優しい聲がしてゐる。
「私、くみ子です……御無沙汰してをります。今日、東京へ出て參りましたの……」
 初めは誰かと耳をそばだててゐた津田の瞼に、かつてのくみ子の顏が大きく浮んで來た。
「あのね、いま、私、丸ビルまで來てゐますの、下の竹葉で御飯を食べたとこなんですけど、ねえ、あの、一寸、お會ひ出來ませんでせうか?」
「…………」
「怒つていらつしやる? ごめんなさい、――でも、お會ひして、色々聞いて戴きたいンですの……」
 津田は腕時計を眺めた。丁度二時だ。いまごろのんびりと晝飯を食つてゐるくみ子の樣子を考へて、津田は何だか不快な氣持ちだつたが、それでも久しく逢はないくみ子に、何となく自分も逢ひたい氣持ちである。
「珍らしいこともあるもンですね。――ぢやア、まア、一寸うかがひませう……」
 受話機を戻して、上着をひつかけると、津田は隣席の櫻井に一寸頼んで、くみ子の待つてゐる地階の竹葉へ降りて行つてみた。
(何年になるかな……あれから、丸二年は經つてゐるな)
 津田が竹葉へはいつて行くと、窓ぎはのボツクスにくみ子がにこにこ笑つてゐた。細かな花模樣の青い着物に、白博多の帶が清楚にぱつとまばゆかつた。
「來てなんか下さらないと思ひましたわ……」
 津田が腰をおろすと、くみ子が遠慮さうにさう云つた。
「いつたい、何時出て來たんです?」
「さつき、まだ荷物も驛へ預けつぱなしですの、――當分、私、東京にゐようと思つてゐるんですけど……」
「水害はどうでした?」
「ええ、ありがたうございます。とてもひどかつたのですけど、私のところは大丈夫だつたの、貴方の處は如何でした?」
「僕のところは山の手だから大丈夫ですよ」
 くみ子はハンドバツクから薄むらさきのハンカチを出して、それを少時く擴げたりたたんだりしてゐた。今度の上京に就いては、何か深い事情があるらしく、ハンカチをもてあそんでゐるくみ子の指が時々震へてゐる。
「今夜は何處へ泊るんです?」
「別に何處つてあてなんかないんですけど、女學校時代の友達の家へ行かうかしらんと思うてますの……」
 周次は心のうちにざまをみろと云ひたいものがあつたが、それでも、そのざまをみろのうちにも、一筋や二筋のみれんはないでもない。――やがて、周次は、東京驛へくみ子を待たしておいて自分はオフイスへ戻つて行つた。さうして會計のところへ行つて少しばかりの金を借りて、帽子を取つて外へ出たけれど、周次は今だにくみ子に戀々としてゐる…

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