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幸福の彼方
こうふくのかなた
作品ID24355
著者林 芙美子
文字遣い新字旧仮名
底本 「林芙美子全集 第十五巻」 文泉堂出版
1977(昭和52)年4月20日
入力者林幸雄
校正者花田泰治郎
公開 / 更新2005-08-22 / 2014-09-18
長さの目安約 19 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     一

 西陽の射してゐる洗濯屋の狭い二階で、絹子ははじめて信一に逢つた。
 十二月にはいつてから、珍らしく火鉢もいらないやうな暖かい日であつた。信一は始終ハンカチで額を拭いてゐた。
 絹子は時々そつと信一の表情を眺めてゐる。
 長らくの病院生活で、色は白かつたけれども少しもくつたくのないやうな顔をしてゐて、耳朶の豊かなひとであつた。顎が四角な感じだつたけれども、西陽を眩しさうにして、時々壁の方へ向ける信一の横顔が、絹子には何だか昔から知つてゐるひとででもあるかのやうに親しみのある表情だつた。
 信一はきちんと背広を着て窓のところへ坐つてゐた。仲人格の吉尾が、禿げた頭を振りながら不器用な手つきで寿司や茶を運んで来た。
「絹子さん、寿司を一つ、信一さんにつけてあげて下さい」
 さう云つて、吉尾は用事でもあるのか、また階下へ降りて行つてしまつた。寿司の上をにぶい羽音をたてて大きい蝿が一匹飛んでゐる。絹子はそつとその蝿を追ひながら、素直に寿司皿のそばへにじり寄つて行つて小皿へ寿司をつけると、その皿をそつと信一の膝の上へのせた。信一は皿を両手に取つて赧くなつてゐる。絹子はまた割箸を割つてそれを黙つたまま信一の手へ握らせたのだけれども、信一はあわててその箸を押しいただいてゐた。
 ふつと触れあつた指の感触に、絹子は胸に焼けるやうな熱さを感じてゐた。
 信一を好きだと思つた。
 何がどうだと云ふやうな、きちんとした説明のしやうのない、みなぎるやうな強い愛情のこころが湧いて来た。
 信一は皿を膝に置いたまま黙つてゐる。
 硝子戸越しにビール会社の高い煙突が見えた。絹子は黙つてゐるのが苦しかつたので、小皿へ醤油を少しばかりついで、信一の持つてゐる寿司皿の寿司の一つ一つへ丁寧に醤油を塗つた。
「いや、どうも有難う‥‥」
 醤油の香りで、一寸下を向いた信一はまた赧くなつてもじもじしてゐた。絹子は信一をいいひとだと思つてゐる。何かいい話をしなければならないと思つた。さうして心のなかには色々な事を考へるのだけれども、何を話してよいのか、少しも話題がまとまらない。
 信一は薄い色眼鏡をかけてゐたので、一寸眼の悪いひととは思へないほど元気さうだつた。絹子は一生懸命で、
「村井さんは何がお好きですか?」
 と訊いてみた。
「何ですか? 食べるものなら、僕は何でも食べます」
「さうですか、でも、一番、お好きなものは何ですの?」
「さア、一番好きなもの‥‥僕はうどんが好きだな‥‥」
 絹子は、
「まア」
 と云つてくすくす笑つた。自分もうどんは大好きだつたし、二宮の家にゐた頃は、お嬢さまもうどんが好きで、絹子がほとんど毎日のやうにうどんを薄味で煮たものであつた。
 うどんと云はれて、急に御前崎の白い濤の音が耳もとへ近々ときこえてくるやうであつた。絹子と信一は同郷人で、信一は絹子とは七…

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