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濡れた葦
ぬれたあし |
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作品ID | 24356 |
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著者 | 林 芙美子 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「惡鬪」 中央公論社 1940(昭和15)年4月17日 |
入力者 | 林幸雄 |
校正者 | 花田泰治郎 |
公開 / 更新 | 2005-10-30 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 23 ページ(500字/頁で計算) |
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1
女中にきいてみると、こゝでは朝御飯しか出せないと云ふことで、ふじ子はがつかりしてしまつた。子供たちは、いかにも心細さうにあたりをながめてゐる。ふじ子はひよいとしたら、丼物でもとつてもらへるかも知れないと、女中に、何か食べものを取りよせてもらへるかときいてみた。
「さうですねえ、お蕎麥か、親子丼ぐらゐのとこでしたら‥‥」
「ぢやア、親子丼とうどんかけを一つづつ取つて下さいませんか」
女中が階下へおりてゆくと、ふじ子は暑いので帶をといた。障子をあけると、ふつと椎の木のむせるやうな匂ひが流れてきた。
「いま、おいしい御飯が來るから待つてゐらつしやい‥‥」
ふじ子は、子供たちの疲れた顏を見ると、冷い手拭で二人の顏を拭いてやりたいとおもひ、廊下へ出て洗面所を探した。廊下のつきあたりが窓になり、そこから、電車通の賑やかなネオンサインが見える。表は西洋館まがひで、ペンキで新しさうに塗りたてたこの旅館も、なかへはいつてみると古ぼけた造作で、新宿の賑やかな通りに、こんな古めかしい旅館があるとはおもへないくらゐだつた。
もう遲いので、女中が蒲團をかゝへて梯子段をあがつて來た。ふじ子はその女に洗面所をきいて、暗い梯子段を階下へ降りていつた。洗面器が三ツ四ツ、暗い流しに伏せてある。ふじ子は銹びたやうな水道のガランをひねつて、ぬるい水を洗面器にたゝへた。
生きてゆくためには、どのやうな手段法則をもいとはないのだけれど、二人の子供のことを考へると、ふじ子はどうにも仕方のない現實を感じるのであつた。親子三人やつとで、猛火をくゞり拔けて來たやうなそんな氣がして來る。ぬるい水のなかへ顏をひたしてゐると、急に鼻の奧が涙で燒けるやうになり、ぐつぐつと眼に熱いものがつきあげて來た。
細い聲でこほろぎがないてゐる。
ふじ子は、つくづく敗滅の人生を感じずにはゐられなかつた。――明日になつたら木谷に電話をかけて、宿へ來て貰はうと考へ、これからさきのことは、暗く怖しくとも、いまだけは、どうにかこの生活からのがれることが出來ればいゝと思へた。
手拭をしぼつて部屋へかへつてゆくと、もう丼物が來てゐて、上の子の健吉は、親子丼の蓋をあけて母を待つてゐた。妹のちづ子の方は、狹い蚊帳の中で寢てゐる。
「おや、ちいちやん寢ちまつたのね、おうどんをすこし食べさせようと思つたのに‥‥」
「僕、これ食べていゝ?」
「あゝ、おあがんなさい、――でも、一寸、お顏とお手々を拭いてからね」
ふじ子が濡れ手拭を健吉の顏へ持つてゆくと、健吉は箸を持つたなりで、顏だけふじ子の方へつき出してきた。
「ねえ、お母さん、こゝへ、いくつ泊るの?」
「明日までよ」
「明日、姫路へかへるの?」
「さうね、そりやア、わからないわ、どんなになるか‥‥」
「お父さん、いつ來るの?」
「何處へ?」
「だつて、お父さん、僕にす…