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婚期
こんき
作品ID24358
著者林 芙美子
文字遣い旧字旧仮名
底本 「風琴と魚の町」 鎌倉文庫
1946(昭和21)年6月25日
入力者林幸雄
校正者花田泰治郎
公開 / 更新2005-08-22 / 2014-09-18
長さの目安約 14 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 九月にはいつて急に末の妹の結婚がきまつた。妹と結婚をする相手は長い間上海の銀行に勤めてゐたひとで、妹とは十二三も年齡の違ふひとであつたが、何故だか末の妹の杉枝の方がひどくこのひとを好きになつてしまつて、急に自分がゆきたいと云ひ出した。
 始めは長女の登美子にどうだらうかと仲人の與田さんが話を持つて來たのであつたが、登美子は今度も氣がすすまないと云つて、與田さんの話をそのままにして過してゐた。與田さんの方では、登美子の寫眞も相手方へ見せての上のことなので、何とかして話をまとめたいと熱心であつたが、登美子はもう見合ひはこりごりだと思つてゐた。
 與田さんは登美子たちの女學校の先生で、三人姉妹とも優秀な成績で卒業してゐる上に、轉任當時、暫く登美子の家の借家に住んでゐた關係で、何時も何かあると、この三人姉妹のところへ遊びに來てゐた。與田さんもまだ若くて、津田英學塾を出ると、すぐ中國のこのS町の女學校に轉任をして來たのだけれども、すつかり海邊のこの町が氣に入つてしまつて、何時の間にか六年をこの町で過してゐた。與田さんの御主人は海軍の將校の方で、事變以來、二度ほど内地へ戻つて來られたきりで、ずつと與田さんはお留守をまもつて御主人のお母さんと女中さんとの三人暮しである。英語も達者だつたけれども、佛蘭西語もうまくて、時々ノアイユ夫人の詩なんかを譯して生徒に讀んできかせる粹なところもある先生であつた。生徒や先生達のうけもよかつたし、與田さんは年の若い割合に、お仲人も好きで、お母さんといつしよになつて、卒業してゆく生徒の嫁入口をあれこれと心配するのが評判であつた。與田さんは明朗なものが好きで、音樂にしてもバツハのものが好きだつたり、小説は漱石一點ばりで、何事にも明るい蔭のない少女のやうな呑氣な性格の先生であつた。
 與田さんは、何故だか、登美子を非常に好いてゐて、もう、これで四回も登美子へ縁談を持つてきてくれた。登美子の母親も、もう二十四にもなる長女のことを考へると、いいかげんなところでお嫁に行つてくれないと、來年は二十五になつてしまふ。女も二十五を過ぎると、世間では婚期の遲れた娘として、もう、あまりやいやいと云はなくなるだらうし、次の娘の矢須子も結婚してしまつてゐるのに、どうして登美子だけが何時までも長閑にしてゐるのか娘の心の中が少しも解らなかつた。
 今日も、登美子は二階で蒲團を干しながら、何時の間にか、その蒲團の上に寢ころんで、秋の陽のかんかん射しこんでゐるところで、與田先生から借りてきた漱石の草枕を讀んでゐた。ひとかどの見識を持つた、「余はかく思ふ」と云ふやうな余と自稱する小父さんが、人生を論じ、社會を諷し、浮世を厭と思へば、もう人間世界には住めなからう、人間世界に住めなければ人のゐないところへ行かなければならぬなどと、莫迦氣たことを書いてゐる。登美子は面白くてたまら…

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