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愛する人達
あいするひとたち
作品ID24361
著者林 芙美子
文字遣い新字旧仮名
底本 「林芙美子全集 第十五巻」 文泉堂出版
1977(昭和52)年4月20日
入力者林幸雄
校正者花田泰治郎
公開 / 更新2005-08-20 / 2014-09-18
長さの目安約 17 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

ばうばうとした野原に立つて口笛をふいてみても
もう永遠に空想の娘らは来やしない。
なみだによごれためるとんのずぼんをはいて
私は日傭人のやうに歩いてゐる。
ああもう希望もない 名誉もない 未来もない。
さうしてとりかへしのつかない悔恨ばかりが
野鼠のやうに走つて行つた。

 萩原朔太郎といふ詩人は、もうすでに此世にはないけれども、此様な詩が残つてゐる。専造は、大学のなかの、銀杏並木の下をゆつくりと歩きながら、この詩人の「宿命」といふ本の頁をめくつてゐた。
 約束の時間を十分も過ぎたが、五郎の姿はみえない。繁つた、銀杏の大樹はまるで緑のトンネル。枝々が両側からかぶりあつて、馥郁とした涼風をただよはせてゐる。
 この日頃、胃の腑[#「腑」は底本では「附」]の恰好なぞ、考へたこともないほど、専造は食事らしい食事はしてゐない。
 下宿代は滞り勝ち。――二三、友人にあたつてみた職業も、みんな向うから、閉め出しだと云ふ報告。その上、五郎という厄介な子供を抱へてゐては、宛然、もう水の上の捨て小舟。といつて、その二、三の友人すら、現在のやうな世の中では、自身の体のなりゆきに、肝胆を砕いてゐるのがせいいつぱいである。
「旦那!」
 専造はふつと身を引いた。
 ぴたつと汗臭い人間が寄り添つて来たからだ。
 休暇にはいつてゐる大学の構内はこの真昼間、あまり人通りもなく森閑としてゐる。
「旦那!」
「僕のことかい!」
「どうです? 煙草は要りませんかね?」
 あわてて胸の釦をしめた。眼の前に、にゆつと、オレンヂ色の「光」の箱が二つ。
 専造は赧くなつて「いくらなの?」と、尋ねてみる。
「拾三円」
「さア、一箱の金もないな」
「ぢやア、五本、どうです?」
 すでに、箱を開きかけてゐる。男の小指の爪が馬鹿に長い。頭は砂利禿げで並んでみるといやに背がひくい。
 ポケツトを探して、六円五十銭よれよれの札をあはせて出すと、可愛いチヨークのやうな光が五本、男はそのまま正門の方へ歩いてゆく。
 五郎は何を躊躇してゐるンだ。また時計を見る。時計の汚れた硝子に、銀杏の緑が滴つてゐる。
 あいつ、萎れきつて戻つて来るンぢやないかな。
 あゝ、生きる苦しみといふものは‥‥専造は、いつも、くづくづと鳴つてゐる胃の腑を、うるさい奴だと思つた。ふつと、立駐つた。
「専造さアん‥‥」
 人力車夫のやうな走りかたで、五郎が両の手を振り振り走つて来た。
「どうだ?」
「ゐたよ。いま帰つたとこだつて‥‥」
「さうか。何かくれた?」
「手紙をくれたよ」
 汚れたピケの帽子の下から、粗末なハトロンの封筒を出した。
 葡萄のやうな、明るい少年の眼が、つぶらに動く。封を切ると、拾円札が五枚出て来た。
「もう、その本、売らなくてもいいンだらう?」
「また、この次だ」
 当分、御教授はお休みにして下さい。手紙には簡単にかう書いて…

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