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雪ちゃん
ゆきちゃん
作品ID24394
著者寺田 寅彦
文字遣い新字新仮名
底本 「寺田寅彦全集 第一巻」 岩波書店
1996(平成8)年12月5日
初出
入力者Nana ohbe
校正者松永正敏
公開 / 更新2004-04-18 / 2016-02-25
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 学校の昼の休みに赤門前の友の下宿の二階にねころんで、風のない小春日の温かさを貪るのがあの頃の自分には一つの日課のようになっていた。従ってこの下宿の帳場に坐っていつもいつも同じように長い煙管をふすべている主婦ともガラス障子越しの御馴染になって、友の居ると居ないにかかわらず自由に階段を上るのを許されていた。
 ここな二階から見ると真砂町の何とか館の廊下を膳をはこぶ下女が見える。下は狭い平庭で柿が一本。猫がよくこれを伝うて隣の屋根に上るのである。庭へは時々近辺の子供が鬼ごっこをしながら乱入して来ては飯焚の婆さんに叱られている。多く小さい男の子であるが、中にいつも十五、六の、赤ん坊を背負った女の子が交じっている。そしてその大きい目から何からよく死んだ妹に似ているので、あれは何処の娘かと友に尋ねてみた事がある。友の知っているだけでは彼は隣の小さい下宿の娘で、父なる者は今年七十近い爺さんで母はやっと三十くらいだとの事であった。名は雪ちゃんと云った。
 その後自分は小石川へ家を持つ事になって、しばらくの間友の下宿へも疎くなっていたが、悲しい事情のために再び家をたたんで下宿住いをしなければならぬ事になった時、ちょうど友の隣の下宿の二階があいているとの事で計らずこの雪ちゃんの宅に机を据える事になった。
 ここに世話になったのがかれこれ半年。あえて短い日子ではなかったが、こう云う事には極めて疎い自分にはこの家の家庭の過去現在について知り得られた事は至って僅かで、また強いて知りたいと思いもしなかった。が、主婦が新潟の人である事、主人はもとは士族で先妻に子まであった事、そして先妻がなくなったあとそれまで下女であった今の主婦を入れた事などは友や主婦自身の口から知った僅かな事実の主なる部分であった。しかし雪ちゃんが主婦の実子か否と云う事は聞き洩した。尤も主婦がこの娘に対すると先達て生れた妹の利ちゃんに対するとその間に何のちがいも自分には認められなかったとは云え。
 主婦は親切であったが、色の蒼白い、眉の間には始終憂鬱な影がちらついて、そして時々工合が悪いと云っては梯子の上り下りの苦しそうな事があり、また力無い咳をするところなどを見るとあるいはと思う事があって友に計ったが、この家に数年前から泊っていて、ほとんど家内同様になっている医科の男があってそれが一向引越しもしないところから見るとまさかそうではあるまいと云うので、格別気にも止めなかったのである。雪ちゃんもこの色の蒼白いそして脊のすらりとしたところは主婦に似ていて、朝手水の水を汲むとて井戸縄にすがる細い腕を見ると何だかいたいたしくも思われ、また散歩に出掛ける途中、御使いから帰って来るのに会う時御辞儀をして自分を見て微笑する顔の淋しさなどを考え、この児には何処にか病気でも潜んでいるではないかと云う気がしていた。亡妹に似ていると云うのが…

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