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作品ID244
著者太宰 治
文字遣い新字新仮名
底本 「太宰治全集8」 ちくま文庫、筑摩書房
1989(平成元)年4月25日
初出「芸術」1946(昭和21)年7月
入力者柴田卓治
校正者miyako
公開 / 更新2000-04-07 / 2014-09-17
長さの目安約 17 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 人生はチャンスだ。結婚もチャンスだ。恋愛もチャンスだ。と、したり顔して教える苦労人が多いけれども、私は、そうでないと思う。私は別段、れいの唯物論的弁証法に媚びるわけではないが、少くとも恋愛は、チャンスでないと思う。私はそれを、意志だと思う。
 しからば、恋愛とは何か。私は言う。それは非常に恥かしいものである。親子の間の愛情とか何とか、そんなものとはまるで違うものである。いま私の机の傍の辞苑をひらいて見たら、「恋愛」を次の如く定義していた。
「性的衝動に基づく男女間の愛情。すなわち、愛する異性と一体になろうとする特殊な性的愛。」
 しかし、この定義はあいまいである。「愛する異性」とは、どんなものか。「愛する」という感情は、異性間に於いて、「恋愛」以前にまた別個に存在しているものなのであろうか。異性間に於いて恋愛でもなく「愛する」というのは、どんな感情だろう。すき。いとし。ほれる。おもう。したう。こがれる。まよう。へんになる。之等は皆、恋愛の感情ではないか。これらの感情と全く違って、異性間に於いて「愛する」というまた特別の感情があるのであろうか。よくキザな女が「恋愛抜きの愛情で行きましょうよ。あなたは、あたしのお兄さまになってね」などと言う事があるけれど、あれがつまり、それであろうか。しかし、私の経験に依れば、女があんな事を言う時には、たいてい男がふられているのだと解して間違い無いようである。「愛する」もクソもありやしない。お兄さまだなんてばからしい。誰がお前のお兄さまなんかになってやるものか。話がちがうよ。
 キリストの愛、などと言い出すのは大袈裟だが、あのひとの教える「隣人愛」ならばわかるのだが、恋愛でなく「異性を愛する」というのは、私にはどうも偽善のような気がしてならない。
 つぎにまた、あいまいな点は、「一体になろうとする特殊な性的愛」のその「性的愛」という言葉である。
 性が主なのか、愛が主なのか、卵が親か、鶏が親か、いつまでも循環するあいまい極まる概念である。性的愛、なんて言葉はこれは日本語ではないのではなかろうか。何か上品めかして言いつくろっている感じがする。
 いったい日本に於いて、この「愛」という字をやたらに何にでもくっつけて、そうしてそれをどこやら文化的な高尚なものみたいな概念にでっち上げる傾きがあるようで、(そもそも私は「文化」という言葉がきらいである。文のお化けという意味であろうか。昔の日本の本には、文華または文花と書いてある)恋と言ってもよさそうなのに、恋愛、という新語を発明し、恋愛至上主義なんてのを大学の講壇で叫んで、時の文化的なる若い男女の共鳴を得たりしたようであったが、恋愛至上というから何となく高尚みたいに聞えるので、これを在来の日本語で、色慾至上主義と言ったら、どうであろうか。交合至上主義と言っても、意味は同じである。そんなに…

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