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環礁
かんしょう
作品ID24444
副題――ミクロネシヤ巡島記抄――
――ミクロネシヤじゅんとうきしょう――
著者中島 敦
文字遣い旧字旧仮名
底本 「中島敦全集第一卷」 筑摩書房
1976(昭和51)年3月15日
入力者門田裕志
校正者多羅尾伴内
公開 / 更新2004-11-07 / 2014-09-18
長さの目安約 74 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

  寂しい島

 寂しい島だ。
 島の中央にタロ芋田が整然と作られ、その周圍を蛸樹やレモンや麺麭樹やウカル等の雜木の防風木が取卷いてゐる。その、もう一つ外側に椰子林が續き、さてそれからは、白い砂濱――海――珊瑚礁といつた順序になる。美しいけれども、寂しい島だ。
 島民の家は西岸の椰子林の間に散らばつてゐる。人口は百七八十もあらうか。もつと小さい島を幾つも私は見て來た。全島珊瑚の屑ばかりで土が無いために、全然タロ芋(之が島民にとつての米に當るのだ)の出來ない島も知つてゐる。蟲害のために悉く椰子を枯らして了つた荒涼たる島も知つてゐる。それだのに、人口僅か十六人のB島を別にすれば、此處程寂しい島は無い。何故だらう? 理由は、たゞ一つ。子供がゐないからだ。
 いや、子供もゐることはゐる。たつた一人ゐるのだ。今年五歳になる女の兒が。さうして、其の兒の外に二十歳以下の者は一人もゐない。死んだのではない。絶えて生れなかつたのだ。その女の兒(外に子供はゐないのだから、言ひにくい島民名前などは持出さずに、唯、女の兒とだけ呼ぶことにしよう)が生れる前の十數年間、一人の赤ん坊も此の島に生れなかつた。女の兒が生れてから今に至る迄、まだ一人も生れない。恐らく、今後も生れないのではなからうか。少くとも、此の島の年老いた連中はさう信じてゐる。それ故、數年前この女の兒が生れた時は、老人連が集まつて、此の島の最後の人間――女になるべき赤ん坊を拜んだといふことである。最初の者が崇められるやうに、最後の者も亦崇められねばならぬ。最初の者が苦しみを嘗めたやうに、最後の者も亦どんなにか苦しみを嘗めねばならぬであらう。さう呟きながら、黥をした老爺や老婆達が、哀しげに虔み深く、赤ん坊を禮拜したといふ。但し、それは老人だけの話で、若い者は、何年にも見たことのない人間の赤ん坊といふものが珍しさに、ワイ/\騷ぎながら見物に來たと聞いてゐる。丁度女の兒が生れる二年前に、戸口調査があり、其の時の記録には人口三百と記されてゐるのに、今ではもう百七八十しか無い。こんな速やかな減少率があらうか。死ぬ者ばかりで生れる者が皆無だと、別に疫病に見舞はれた譯でなくとも、斯んなに速く減るものだらうか。當時女の赤ん坊を拜んだ老人達は最早一人殘らず死んで了つてゐるに違ひない。それでも、老人達の殘した訓へは固く守られてゐると見えて、今でも、此の島の最後の者たるべき女の兒は、喇嘛の活佛のやうに大事にされてゐる。成人ばかりの間にたつた一人の子供では、可愛がられるのが當り前のやうだが、此の場合は、それに多分の原始宗教的な畏怖と哀感とが加はつてゐるのである。
 何故、此の島には赤ん坊が生れないのか。性病の蔓延や避姙の事實は無いか、と誰もが訊ねる。成程、性病も肺病も無いことはないが、それは何も、此の島に限つたことではない。といふより寧ろ、他の島…

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