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田丸先生の追憶
たまるせんせいのついおく |
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作品ID | 2473 |
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著者 | 寺田 寅彦 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「寺田寅彦随筆集 第三巻」 岩波文庫、岩波書店 1948(昭和23)年5月15日、1963(昭和38)年4月16日第20刷改版 |
初出 | 「理学部会誌」1932(昭和7)年12月 |
入力者 | (株)モモ |
校正者 | かとうかおり |
公開 / 更新 | 2003-03-08 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 13 ページ(500字/頁で計算) |
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なくなってまもない人の追憶を書くのはいろいろの意味で困難なものである。第一には、時のパースペクティヴとでもいうのか、近いほうの事がらの印象が遠い以前のそれを掩散したがる傾向がある。第二には、近いほうの事を書こうとすると自然現在の環境の中でのいろいろの当たりさわりが生じやすい。第三には、いったいそういうものを書こうというような気持ちにもなりにくいものである、いかにも心ないわざだという気がするのである。それで田丸先生の場合にしても、なくなられてまもない今日、こんなものを書く気になりかねるのではあるが、理学部会編集委員のたっての勧誘によって、ほんの少しばかり自分の高等学校時代の思い出を主にして書いてみることにした。
明治二十九年の秋熊本高等学校に入学してすぐに教わった三角術の先生がすなわち当時の若い田丸先生であった。トドハンターの本を教科書として使っていた。いちばん最初に試験をしたときの問題が、別にむつかしいはずはなかったのであるが、中学校の三角の問題のような、公式へはめればすぐできる種類のものでなくて、「吟味」といったような少しねつい種類の問題であったので、みんなすっかり面食らって、きれいに失敗してしまって、ほとんどだれも満足にできたものはなかった。その次の時間に先生が教壇に現われて、この悲しむべき事実を報告されたのであったが、その時の先生は実にがっかりしたような困り切ったような悲痛な顔をしておられた。あんなやさしい問題ができないのは実に不思議だと言われるのであった。生徒一同もすっかりしょげてしまい恐縮してしまったのであったが、とにかくもう一ぺん試験のやり直しをすることになり、今度は普通の中学校式の問題であったから、みんなどうにか及第点をとって、それで事は落着したのであった。
たしか二年のときであったと思うが、ある日、運動会のあった翌日だからというので、先生がたに交渉して休みにしてもらおうとした。ほかの先生はだいたい休みということになったが、物理の受け持ちの田丸先生はなかなか容易に承諾を与えられなかった。そこで生徒のほうで勝手に休むことに相談一決してみんなで失敬してしまったものである。先生が教場へはいってみるとそこにはたった一人、まじめで勉強家で有名な何某一人のほかにはだれもいなかった。その翌日になると一同で物理の講堂へ呼び出されて、当然の譴責を受けなければならなかった。その時の先生の悲痛な真剣な顔を今でもありあり思い出すことができるような気がする。それが生徒に腹を立ててどなりつけるのではなくて、いったいどうして生徒がそういう不都合をあえてするかということに関する反省と自責を基調とする合理的な訓戒であったのだから、元来始めから悪いにきまっている生徒らは、針でさされた風船玉のように小さくなってしまった。化学のK先生がそばにいて取り成しの役を勤められたのにお任…