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誰も知らぬ
だれもしらぬ
作品ID252
著者太宰 治
文字遣い新字新仮名
底本 「太宰治全集3」 ちくま文庫、筑摩書房
1988(昭和63)年10月25日
初出「若草」1940(昭和15)年4月
入力者柴田卓治
校正者小林繁雄
公開 / 更新1999-12-20 / 2014-09-17
長さの目安約 15 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 誰も知ってはいないのですが、――と四十一歳の安井夫人は少し笑って物語る。――可笑しなことがございました。私が二十三歳の春のことでありますから、もう、かれこれ二十年も昔の話でございます。大震災のちょっと前のことでございました。あの頃も、今も、牛込のこの辺は、あまり変って居りませぬ。おもて通りが少し広くなって、私の家の庭も半分ほど削り取られて道路にされてしまいました。池があったのですが、それも潰されてしまって、変ったと言えば、まあそれくらいのもので、今でも、やはり二階の縁側からは、真直に富士が見えますし、兵隊さんの喇叭も朝夕聞えてまいります。父が長崎の県知事をしていたときに、招かれて、こちらの区長に就任したのでございますが、それは、ちょうど私が十二の夏のことで、母も、その頃は存命中でありました。父は、東京の、この牛込の生れで、祖父は陸中盛岡の人であります。祖父は、若いときに一人でふらりと東京に出て来て半分政治家、半分商人のような何だか危かしいことをやって、まあ、紳商とでもいうのでしょうか、それでも、どうやら成功して、中年で牛込のこの屋敷を買い入れ、落ちつくことが出来たようです。嘘か、ほんとか、わかりませんけれど、ずっと以前、東京駅で御災厄にお遭いなされた原敬とは同郷で、しかも祖父のほうが年輩からいっても、また政治の経歴からいっても、はるかに先輩だったので、祖父は何かと原敬に指図をすることができて、原敬のほうでも、毎年お正月には、大臣になられてからでさえ、牛込のこの家に年始の挨拶に立ち寄られたものだそうですが、これは、あまりあてになりません。なぜって、祖父が私に、そう言って教えたのは、私が、十二の時、父母と一緒にはじめて東京の、この家に帰り、祖父は、それまで一人牛込に残って暮していたのですが、もう、八十すぎの汚いおじいさんになっていて、私はまた、それまでお役人の父が浦和、神戸、和歌山、長崎と任地を転々と渡り歩いているのについて歩いて、生れたところも浦和の官舎ですし、東京の家へ遊びに来たことも、ほんの数えるほどしかありませんでしたから、祖父には馴染が薄くて、十二のとき、この家にはじめて落ちつき、祖父と一緒に暮すようになってからも、なんだか他人のような気がして、きたならしく、それに祖父の言葉には、とても強い東北訛が在りましたので何をおっしゃっているのか、よくわからず、いよいよ親しみが減殺されてしまうのでした。私が祖父に、ちっともなつかないので、祖父は手を換え品を変え私の機嫌をとったもので、れいの原敬の話も、夏の夜お庭の涼み台に大あぐらをかいて坐って、こんな工合に肘を張って、団扇を使いながら私に聞かせて下さったのですが、私は、すぐに退屈して、わざと大袈裟にあくびをしたら、祖父は、ちらとそれを横目で見て、急に語調を変えて、原敬は面白くなし、よし、それでは牛込七不思議、昔…

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