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月二夜
つきふたよ
作品ID2548
著者与謝野 晶子
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の名随筆58 月」 作品社
1987(昭和62)年8月25日
入力者土屋隆
校正者門田裕志
公開 / 更新2006-11-11 / 2014-09-18
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 新涼の季節に入つて良い月夜がつづく。月暦の上でこそ閏のために中秋は来月に延びてゐるが、実際の気候から云へば例年のやうに今が中秋の月夜の後である。月は昔から東洋人により多く喜ばれる。欧洲でも詩人は月を歌ふが、一般人は月よりも太陽を際立つて喜ぶ。それは欧洲の風土が支那や日本のやうに豊かに日光に恵まれることが少いからである。この意味で日本人は日光の恩恵に慣れて少し太陽を粗末にしてゐるとも思はれる。我国の古典文学に太陽讚美の秀れた文学が無いのも其のためであらう。この十五夜は私の住んでゐる郊外の里の秋祭であつた。良人に誘はれて散歩に出ると、武蔵野の月が黒い杉の森と森との間の稲田の上に昇つてゐた。小川の水が高く靡いた草の中に隠見して白く遠方へつづいてゐる。三四町歩いて引返すと、宅に大学生の田中悌六さんが来て待つてゐられた。窓に射す月がますます良い。良人が祭に催す村芝居を覗いて見ようと珍しく気まぐれを云ふので、二三年帝劇へもどの芝居へも行かない夫婦が、常に芝居と音楽会へ行き慣れてゐる田中さんと三人で出掛けた。村芝居と云ふが実は武蔵野劇団と云ふ名で近郊の秋祭を当て込んで興行して廻る最下級の役者の芝居である。空地によごれた幕が引廻され、浅葱地に役者の名を白く染め抜いた幟が三本立ち、シヤツにズボン下を著けた男が声も立てずに露つぽい中に立つて木戸番をしてゐる。私は躊躇したが良人が入らうといふので一人十五銭の木戸銭を払つた。客はまだ子供を交ぜて十四五人しか来てゐない。舞台にきたない引幕が下がつて、幕の後ろに唯だ一つ電灯が薄暗くついてゐる。花道の揚幕に一つ附ける電灯の工合が悪いのを今工夫が来て直してゐる。場内には荒莚が五十枚ほど敷かれ、其の継目から草が食み出し、其上の申訳ばかりに薄い布を張つた天井を透して月が望まれる。月はすべてを美化すると云ふが、さうでも無い。鼻の欠けた中年の女が立つてゐて一枚五銭の座蒲団を勧めるけれども客は頭を振つて莚へぢかに足坐をかくか、携へて来た新聞を敷いてゐる。田中さんが「四谷怪談などは却てかう云ふ陰気な小屋で演じたら似合ふでせう」と云はれる。良人が鼻の欠けた女に聞いた所では、役者は浅草の公園劇場と映画俳優との下廻りであると云ふ。また此の小屋は其女の主人が五日間百五十円で座元に貸してゐるので、毎晩の木戸銭から其女が小屋代を厳重に差引いて帰る。此の小屋は一夜に参百人以上の客がないと小屋代さへ払へない。それが昨晩は八十人しか入らなかつた。此分では座元は非常な損で、屹度役者衆は弁当代も貰へまいと云ふ。其中に三十人程の客が集つたのでやつと幕があいた。何と云ふ芸題か知らぬが大五郎と云ふ主人公の活躍する侠客物である。映画劇に由つた物と見えて筋が早く簡単に運んで行く。大五郎に扮する座頭の外は科白も科も間に合せである。科白の中に「お客様がただのお神楽ばかりを観て此処へは来…

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