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![]() ちゅうしゃくよさのひろしぜんしゅう |
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作品ID | 2560 |
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著者 | 与謝野 晶子 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「冬柏」 新詩社 1935(昭和10)年6月号、7月号、9月号、10月号、12月号、1936(昭和11)年2月号 |
初出 | 「冬柏」新詩社、1935(昭和10)年6月号、7月号、9月号、10月号、12月号、1936(昭和11)年2月号 |
入力者 | 武田秀男 |
校正者 | 土屋隆 |
公開 / 更新 | 2005-04-10 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 38 ページ(500字/頁で計算) |
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全集は上下二巻になつて居る。下巻の方に初期の作が収められて居るのであるから、歴史的に云へば註釈も下巻から初めねばならぬものかも知れぬが、故人の意を尊重して私はやはり初めに編まれたものを前にする。
炉上の雪二百八十六首は割書にもある如く大正元年から昭和五年に到る間の雑詠から成つて居る。
炉の上の雪と題せりこの集のはかなきことは作者先づ知る
人も時時大宇宙の精神になつて物を見る時があつて、不滅の火であることを信じて居る自身の芸術なども脆い生命の持主である人間の物であればはかないに違ひないと感じる。其れを言葉にして云へば自身だけの謙遜になる。反語でなしに作者は云はうとした動機と、齎らす結果の相違を初めから予期して居た歌である。炉の上へ雪が降つて居るのではなくて、是れは暖炉の縁などへ雪の塊りが置かれて居て、じいじいと音がして解けて行く趣きである。私達が富士見町に居た初めの頃に、小さい庭の雪を集めて来て私はよく其れで物の形を彫つて遊んだ。炬燵の上でしたことであつた。人の顔などを彫つて気に入つた物の出来た時に、其物が当然解けて行く雪であることを思つて私の歎く愚かさからヒントを得たのかも知れない。
太陽よおなじ処に留まれと云ふに等しき願ひなるかな
去り行く青春を惜む心である。これは空中の日の歩みを一つの所に留めて動くなと望むに斉しい気持であると自嘲した。仮りて云ふものも最も適切なものであつたことが強い効果を挙げ得たのであると私は思ふ。また全体の調子ものんびりとして居て作者の恐れて居る初老の面影などは見えて居ない。
ひんがしの国には住めど人並に心の国を持たぬ寂しさ
住して居る所は確かに極東の日本であるが、自分の心には安住の国がない。他の人人を見ると誰れも自分のやうな焦慮はして居ないが自分には是れが苦しいと云ふのである。
やうやくに自らを知るかく云へば人あやまりて驕慢と聞く
此頃はやつと自分と云ふものが解つたやうな心境を得て居る。是れを自分は歌つて居るのであるがまま驕慢であるかのやうな誤解を受けると云ふのであつて、其事が並並の自覚と云ふものとは変つたものであることをも云はうとしたのである。
白がちの桃色をして蓼の花涙ののちの頬の如く立つ
細かに見れば蓼の花は白混りの薄紅であるが、受ける感じは白がちの時色である。作者は細かに見て居ないのではなく、女の顔の涙の後の色の斑らな薄紅の美を聯想したことで其れを現して居るのである。野の蓼の弱弱しい、然かも若さの溢れたやうな姿は作者の好んだ所である。
蝶を見て恋を思ひぬその蝶を捉へつるにも逃がしつるにも
目前に現れた蝶に由つて自分は恋愛と云ふものを考へさせられた。捉へ難いのを捉へ得た悦びにも、また手から逸してしまつた時の失望にもさうであつたと云ふので、美くしいと云はれる恋の本体を語つて居るのである。この歌などに作者の独特のよ…