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蓬生
よもぎう
作品ID2561
著者与謝野 寛
文字遣い新字旧仮名
底本 「新声」 新声社
1909(明治42)年3月号
入力者武田秀男
校正者門田裕志
公開 / 更新2003-02-08 / 2014-09-17
長さの目安約 22 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

(一)

 貢さんは門徒寺の四男だ。
門徒寺と云つても檀家が一軒あるで無い、西本願寺派の別院並で、京都の岡崎にあるから普通には岡崎御坊で通つて居る。格式は一等本座と云ふので法類仲間で幅の利く方だが、交際や何かに入費の掛る割に寺の収入と云ふのは錏一文無かつた。本堂も庫裡も何時の建築だか、随分古く成つて、長押が歪んだり壁が落ちたり為て居る。其れを取囲んだ一町四方もある広い敷地は、桑畑や大根畑に成つて居て、出入の百姓が折々植附や草取に来るが、寺の入口の、昔は大門があつたと云ふ、礎の残つて居る辺から、真直に本堂へ向ふ半町ばかりの路は、草だらけで誰も掃除の仕手が無い。
 檀家の一軒も無い此寺の貧乏は当前だ。併し代々学者で法談の上手な和上が来て住職に成り、年に何度か諸国を巡回して、法談で蓄めた布施を持帰つては、其れで生活を立て、御堂や庫裡の普請をも為る。其れから御坊は昔願泉寺と云ふ真言宗の御寺の廃地であつたのを、此の岡崎は祖師親鸞上人が越後へ流罪と定つた時、少時此地に草庵を構へ、此の岡崎から発足せられた旧蹟だと云ふ縁故から、西本願寺が買取つて一宇を建立したのだ。其時在所の者が真言の道場であつた旧地へ肉食妻帯の門徒坊さんを入れるのは面白く無い、御寺の建つ事は結構だが何うか妻帯を為さらぬ清僧を住持にして戴きたいと掛合つた。本願寺も在所の者の望み通に承諾した。で代々清僧が住職に成つて、丁度禅寺か何かの様に瀟洒した大寺で、加之に檀家の無いのが諷経や葬式の煩ひが無くて気楽であつた。
 所が先住の道珍和上は能登国の人とやらで、二十三で住職に成つたが学問よりも法談が太層巧く、此の和上の説教の日には聴衆が群集して六条の総会所の縁が落ちるやら怪我人が出来るやら、其れ程に評判であつた。又太層美僧であつた所から、後家や若い娘で迷ひ込んだ者も大分にあつた。在所の年寄仲間は、御坊さんの裏の竹林の中にある沼の主、なんでも昔願泉寺の開基が真言の力で封じて置かれたと云ふ大蛇が祟らねば善いが。あヽ云ふ若い美くしい和上さんの来られたのは危いもんだ。斯う噂をして居たが、和上に帰依して居る信者の中に、京の室町錦小路の老舗の呉服屋夫婦が大した法義者で、十七に成る容色の好い姉娘を是非道珍和上の奥方に差上げ度いと言出した。物堅い和上も若いので未だ法力の薄かつた故か、入寺の時の覚悟を忘れて其の娘を貰ふ事に定めた。
 其頃御坊さんの竹薮へ筍を取りに入つた在所の者が白い蛇を見附けた。其処へ和上の縁談が伝はつたので年寄仲間は皆眉を顰めたが、何う云ふ運命であつたか、愈呉服屋の娘の輿入があると云ふ三日前、京から呉服屋の出入の表具師や畳屋の職人が大勢来て居る中で頓死した。
 御坊さんは少時無住であつたが、翌年の八月道珍和上の一週忌[#「一週忌」はママ]の法事が呉服屋の施主で催された後で新しい住職が出来た。是が貢さんの父である。此…

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