えあ草紙・青空図書館 - 作品カード
楽天Kobo表紙検索
素描
そびょう |
|
作品ID | 2566 |
---|---|
著者 | 与謝野 寛 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「反響」 反響社 1915(大正4)年1月号 |
入力者 | 武田秀男 |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2003-02-10 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 11 ページ(500字/頁で計算) |
広告
広告
おれは朝から寝巻の KIMONO のまヽで絵具いぢりを続けて居た。午飯も外へ食ひに出ないでホテルの料理を部屋へ運ばせて済ませた。まづい物を描いて EXTATIQUE な気分になれるおれの愚鈍さと子供らしさとを自分ながら可笑しく思はないで居られないが、またこの子供らしさが久しく沈んで灰色化して居るおれの LA VIE の上に近づいた一陽来復の兆のやうにも思はれる。実際、一ヶ月前に妻を先きに日本へ帰らせて以来のおれは毎日のやうにまづい絵を描いて居る。勿論おれの描く物が絵になつて居やうとは全く思はない。おれは小娘がリボンや小切れを嬉しがるやうに、[#挿絵]ルミヨン、コバルト、オランジユ、とり/″\に美くしい色布の上へ点描するのが理由もなく嬉しいのだ。
――それにあの女が大分この EXTASE を助けて居る。
おれは描き上げた甜瓜と林檎を実物と見比べながら斯う思つて微笑みたい気分になつた。メロンは一昨日描いたのよりも円味が出て居る。林檎は可なり実物に近い色になつた。
静まり返つて居た梯子段の沈黙を破つて、洞の底からでも昇るやうな気はひで階また階をつたつて来た靴音が突然おれの部屋の前で止まつた。おれは誰れか同国人が訪ねて来たんだと思つて、絵を画架のまヽ裏向けて隠すやうにして壁の方へ寄せた。
――どなた。
――わたしよ、ARMANDE。
おれは女がいつも牽いて来る毛の白い、脚の長い、狼のやうな相をした R[#挿絵]VRIER 種の猟犬の気はひがしなかつたのでアルアンド[#「アルアンド」はママ]だとは気づかなかつたのだ。それに次の RENDEZ-VOUS は明日の火曜日の晩に別々にポルト・サン・マルタン座を観たあとで芝居の近所の珈琲店で待ち合せる約束であつた。おれは戸を開けた。おれの左の手にはまだ画板と刷毛とを持つて居た。
――今日は。
――今日は。
女は紫の光沢のある黒い毛皮の外套に、同じやうな色の大黒帽を被り犬の綱を執る代りに大きな紙包みの荷物を提げて居る。手袋の上から手を握らせながら、おれの頬に唇を触れたあとで、
――タケノウチさん、あなたの仕事のお邪魔になりはしないこと。
と云つた。おれは女の見慣れないけば/\しい新粧と、三十歳ぢかい女の豊満な肉の匂ひと、香水のかをりとに一種の快い圧迫を感じた。
――そんなことはない。これは仕事ぢやなくて遊戯だもの。
おれは部屋の隅で徐かに手を洗つた。女は外套を寝台の上へ脱いだ。下には萌葱と淡紅色とを取り合せた繻子の ROBE を着て居る。それも新しく仕立てた物らしい。
――あなたのお部屋は段々と高くなるのね。
二週間に二階から三階へ四階へと………
女は窓に寄つて外を眺めながら斯う云つた。女の右の手に日光があたつて指環に嵌めた玉が火の雫のやうに光つて居る。指も赤く透きとほつて紅玉質になつて居る。
―…