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くい
作品ID2605
著者水野 仙子
文字遣い旧字旧仮名
底本 「淑女画報 大正四年九月号」 博文館
1915(大正4)年9月
入力者小林徹
校正者林幸雄
公開 / 更新2001-05-15 / 2014-09-17
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 ある地方の郡立病院に、長年看護婦長をつとめて居るもとめは、今日一日の時間からはなたれると、急に心も體も弛んでしまつたやうな氣持ちで、暮れて行く廊下を靜かに歩いてゐた。
『おや、降つてるのかしら。』
 彼女は初めて氣がついたやうに窓の外を見て呟く。冷え/″\として硝子のそとに、いつからか糸のやうに細かな雨が音もなく降つてゐる、上草履の靜かに侘びしい響が、白衣の裾から起つて、長い廊下を先へ/\と這うて行く。
 彼女が小使部屋の前を通りかゝつた時、大きな爐の炭火が妙に赤く見える薄暗い中から、子供をおぶつた内儀さんが慌てゝ聲をかけた。
『村井さん、今し方お孃さんが傘を持つておいんしたよ。』
 彼女はそこで輕く禮を言つて傘を受取つた。住居はつひ構内の長屋の一つであるけれど、『せい/″\氣を利かしてお役に立つてみせます』と言つてるやうな娘の心をいぢらしく思ひながら、彼女はぱちりと雨傘をひらく。寸ほどにのびた院内の若草が、下駄の齒に柔かく觸れて、土の濕りがしつとりと潤ひを持つてゐる。微かな風に吹きつけられて、雨の糸はさわ/\と傘を打ち、柄を握つた手を霑す。
 別段さうするやうに言ひつけた譯ではなかつたけれど、自然自然に母の境遇を會得して來た娘の君子は、十三になつた今年頃から、一人前の仕事にたづさはるのを樂しむものゝやうに、ひとりでこと/\と臺所に音をたてゝゐたりするやうになつた。今日も何やら慌てゝ板の間に音をたてながら、いそ/\と母を迎へに入口まで出て來た。
『お歸んなさい、あんね母さん、兄さんから手紙が來てゝよ。』
『さうかい。』
 彼女は若々しく胸をどきつかせながら、急いで机の上の手紙を取つて封を切つた。彼女の顏はみる/\喜びに輝いた。曲みかげんに結んだ口許に微笑が泛んでゐる。
『君ちやんや、母さんがするからもういゝかげんにしてお置き、兄さんがはいれたさうだよ、よかつたねえ。』と、あとは自分自身にいふやうに調子を落して、ぺたりとそのまゝ机の前に坐つてしまつた。今の今まで張りつめてゐた氣が一寸の間ゆるんで、彼女は一時の安心のためにがつかりしてしまつたのである。何かしら胸は誇らしさにいつぱいで、丁度人から稱讃の言葉を待ちうけてゐでもするやうにわく/\する。彼女は猶もその喜びと安心を新たにしようとするやうに再び手紙をとりあげる。
 彼女の長男の勉は夢のやうに成人した。小學時代から學業品行共に優等の成績で、今年中學を卒へると、すぐに地方の或る專問學校の入學試驗を受けるために出て行つたのである。今更に思つてみれば、勉はもう十九である。九つと三つの子供を遺されてからの十年間は、今自分で自分に涙ぐまれるほどな苦勞の歴史を語つてゐる。子供達の、わけても勉の成長と進歩は、彼女の生活の生きた日誌であつた。さうして今やその日誌は、新しい頁をもつて始まらうとしてゐるのである。彼女は喜びも心…

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