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![]() じゅもくとそのは |
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作品ID | 2620 |
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副題 | 22 秋風の音 22 あきかぜのね |
著者 | 若山 牧水 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「若山牧水全集 第七卷」 雄鷄社 1958(昭和33)年11月30日 |
入力者 | 柴武志 |
校正者 | 浅原庸子 |
公開 / 更新 | 2001-03-20 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 4 ページ(500字/頁で計算) |
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いちはやく秋風の音をやどすぞと長き葉めでて蜀黍は植う
私は蜀黍の葉が好きである。その實を取るのが望みならば餘り肥料をやらぬ方がよい。然し、見ごとな葉を見やうとならばなるたけ多く施した方がよい。
書齋の窓に沿うた小さな畑に私は毎年この蜀黍を植ゑる。今年はその合間々々に向日葵を植ゑて見た。兩方とも丈の高くなる植物で、一方はその葉が長く、一方はその花が大きい。
一年中さうではあるが、夏は別して私は朝が早い。大抵午前の三四時には窓をあけて椅子に倚る。此頃だともう三時半には戸外がうす明るくなつて來る。そのさやかな東明の微光のなかに、伸びるだけ伸びつくしたこの二つの植物が、一つは黒ずんで見えるまでの青い葉を長々と垂れて立ち、一つは今朝にも咲き出でた樣に鮮かな純黄色の大輪の花を大空に向けて咲いてゐるのを見ると、まつたく眼のさめる思ひがするのである。窓からさした電燈の光で見ると、蜀黍の葉の兩側には點々として露の玉が宿つて居り、なほよく見るとその葉のまんなかどころにちよこなんと一疋の青蛙が坐つてゐる。不思議にこの葉にはこのお客樣が來てゐるものである。
ぢいつとそれらに見入つてゐると、その畑の中から蟋蟀の鳴く音が聞ゆる。もうこの蟲が鳴き出したかと思つてゐると、遠くでは馬追蟲の澄んだ聲も聞えて來るのである。
夏の末、秋のはじめの斯うしたこゝろもちはいかにも佗しいものである。
愛鷹山の根に湧く雲をあした見つゆふべ見つ夏のをはりとおもふ
明がたの山の根に湧く眞白雲わびしきかなやとびとびに涌く
畑なかの小みちを行くとゆくりなく見つつかなしき天の川かも
沼津の町から私の住んでゐる香貫山の麓まで田圃の路を十町ほど歩いて來ることになる。
をり/\町に出て酒を飮む。客と共にすることもあり、獨りの時もある。そしてそれは多くは夜で、その歸りは大抵夜なかの一時となり二時となる。
たゞ獨りして田圃中の路を歸つて來る氣持を私は好む。
歸つて來る路の片側には小さな井手が流れてゐる。ほんのちよろ/\とした小ながれにすぎぬが、水は清らかで、水邊には珠數草と螢草とが青々と茂つてゐる。
醉つた身體の重い足取で、その井手のそばに通りかゝると、珠數草の根を洗ひながら流れてゐる水のせゝらぎが耳につく。一度、小用をするか何かでそれに耳にとめて以來、いつか癖となつて通りかかるごとに氣を附ける樣になつたのかも知れぬ。晝間や、用事を持つた時には殆んど忘れてゐる小流が、さうした場合にのみ必ずの樣に耳について來る。
下駄をぬいで揃へてそれに腰をおろす。足は自づと螢草の茂みにだらりと垂れることになるのである。さうして何を見るともなく、聽くともなく、幾らかの時を過す。時としては、一時間前後もさうしてぼんやりしてゐることがある。水の音の靜かなのが身に沁みるのではあらうが、さればとてわざ/\それを聽かうとするでもな…