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モスクワ印象記
モスクワいんしょうき |
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作品ID | 2641 |
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著者 | 宮本 百合子 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「宮本百合子全集 第九巻」 新日本出版社 1980(昭和55)年9月20日 |
初出 | 「改造」1928(昭和3)年8月号 |
入力者 | 柴田卓治 |
校正者 | 米田進 |
公開 / 更新 | 2002-11-05 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 43 ページ(500字/頁で計算) |
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トゥウェルスカヤの大通を左へ入る。かどの中央出版所にはトルキスタン文字の出版広告がはりだされ、午後は、飾窓に通行人がたかって人間と猫の内臓模型をあかず眺める。緑色の円い韃靼帽をかぶった辻待ち橇の馭者が、その人だかりを白髯のなかからながめている。
中央電信局の建築が、ほとんどできあがった。材料置場の小舎を雪がおおっている。トタンの番小屋のきのこ屋根も白くこおっている。
――ダワイ! ダワイ! ダワイ!
馬橇が六台つながって、横道へはいってきた。セメント袋をつんでいる。工事場の木戸内へ一台ずつ入れられた。番兵は裾長外套の肩に銃をつっている。
長靴に二月の雪をふみしめ、番兵は右に歩く。左に歩く。しかし歩哨の地点からはとおく去らず、彼は口笛をふいた。交代に間がある――。日曜に踊った女の肩からふいと心の首を持ちあげたとき、番兵は向う側の歩道をゆく二人の女を見た。大股に雪の上を――自分の女の記憶のうえをふみしめるのを瞬間わすれて、番兵は自分の目前を見つづけた。
――中国の女?――
一人の女は黒ずくめ。一人の女は茶色ずくめ。毛皮の襟からでている唇をうごかして彼女たちは番兵の理解せぬ言葉をしゃべり、黒ずくめの女の方が高笑いをした。
番兵は銃をゆすりあげ、さらに女たちの後姿をみまもった。街の平ったい建物のみとおし。後から取りつけたに違いないバルコニーが一つ無意味に中空にとび出している。したに、
ホテル・パッサージ[#「ホテル・パッサージ」はゴシック体]
電気入りの看板がでていた。バルチック海の春先の暴風がおこる朝、この看板はゆれた。そして軋む。黄色い紙にかいた献立が貼りだしてあるそのホテルのばからしくおもいドアを体で押しあけて、先ず黒ずくめの女がはいった。つづいて、茶色外套の女もはいってしまった。――バング!
肉入饅頭売りがきた。彼が胸からつるした天火のゆげが、ドアの煽りでちった。同時に肉入饅頭の温い匂いも湯気とともにちる。
番兵の、田舎の脳髄のひだのあいだで東洋女の平たい顔の印象がぼやけた。ただ好奇心の感覚が、漠然神経にのこっている。その時、永いあいだ立っている橇馬が尾をもたげ、ここちよげにゆっくり排泄作用をおこなった。雪解けの水にぬれたむかい屋根の雨樋にモスクワの雀がとまって、熱心に、逞しい馬の後脚の間に落ちたできたての、湯気のでる餌をみはった。
ホテルの四階のはしに、日本女の部屋があった。下足場に棕梠がおいてある。そこから日本女の室まで七十二段、黒・赤・緑花模様の粗末な絨毯がうねくり登っている。昇降機はない。あってもうごかぬ昇降機がモスクワじゅうにたくさんある。日本女は一日に少くとも二百八十段上ったり下りたりした。そのたびに事務室の前をとおりすぎた。事務室の白い戸には三越の文具部にあるインク・スタンドの通りな碧硝子のとってがついて…