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三月八日は女の日だ
さんがつようかはおんなのひだ
作品ID2648
著者宮本 百合子
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第九巻」 新日本出版社
1980(昭和55)年9月20日
初出「改造」1931(昭和6)年1月号
入力者柴田卓治
校正者米田進
公開 / 更新2002-11-10 / 2014-09-17
長さの目安約 21 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 モスクワじゅうが濡れたビードロ玉だ。きのうひどく寒かった。並木道の雪が再び凍って子供連がスキーをかつぎ出した。ところへ今夜は零下五度の春の雨が盛にふってる。どこもかしこもつるつるである。
 黒くひかってそこへ街の灯かげをうつす大都会、地球の六分の一を占める社会主義連邦の首府モスクワの春の泥水をしばいて電車はひどい勢で走っている。今夜は特別な日なんだ。三月八日は世界無産婦人デーである。各区の勤労者クラブでいろんな催しものがある。だから急がなけりゃならない。
 東南へ向って駛る電車のどんづまりで日本女は車を降りた。三四人、赤い布をかぶった女も下りたが、忽ち散ってしまって、日本女は自分の前に雨びしょびしょの暗い交叉点、妙な空地、その端っこに線路工夫の小舎らしい一つの黄色い貨車を見た。その屋根でラジオのアンテナが濡れながら光っている。空地の濡れた細い樹の幹も光っている。あっちを見ると真黒い空の下で大きな白文字が、
КОМУНАР《コムナール》
 外套の襟を立てて労働者がやってきた。日本女は自分の立ってるところから大きな声で呼びかけた。
 ――タワーリシチ! クフミンストル[#挿絵]倶楽部ってどこだか知りませんか?
 ――そこの空地を突切ってずっと行って三つめの横丁を左に入ると橋がある、その先だ。――
 ――畜生!
 警笛を鳴らさずかたっぽのヘッド・ライトをぼんやりつけたトラックがとんできた。
 日本女は、寂しい歩道をときどき横に並んでる家の羽目へ左手をつっぱりながら歩いて行った。本当は新しい防寒靴をもうとっくに買わなければならない筈なんだ。底でゴムの疣が減っちまったら、こんな夜歩けるものじゃない。
 橋へ出た。木の陸橋だ。下を鉄道線路が通っている。前を三人若いコムソモルカらしい労働婦人が足を揃え、雨をかまわず熱心にしゃべりながら歩いて行く。こんなことを云ってる。
 ――馬鹿なのよ! あいつ!
 ――馬鹿って云うより、無自覚だ。だって、もうあの職場じゃ九十五パーセント突撃隊じゃないか!
 ソヴェトのプロレタリアートは雨傘なんてなしで「十月」をやりとげた。一九三〇年、モスクワの群集中にある一本の女持雨傘は、或る時コーチクの外套ぐらい階級性を帯びるのだ。
 歩道の上でかたまってる人影が見え出した。鞣防寒帽子の耳覆いを、赤い頬っぺたの横でフラフラさせた男の子が日本女をつかまえてきいた。
 ――切符もってない?
 又一寸行くと、
 ――余分な切符もってませんか?
 巴里コンミューンの記念祭の夜、ルイコフの名によるクラブへ行ったときも、クラブの入口にいくたりも主に青年がかたまって、来る者ごとに訊いていた。特別な催しがあるときモスクワのクラブでは入場券がいるのだ。
 車寄から劇場そっくりにいくつもの厚い硝子扉が並んでいる。日本女は体じゅうの重みをかけそれを押して入った。バング!…

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