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春の槍から帰って
はるのやりからかえって
作品ID2652
著者板倉 勝宣
文字遣い新字新仮名
底本 「山と雪の日記」 中公文庫、中央公論社
1977(昭和52)年4月10日
入力者林幸雄
校正者土屋隆
公開 / 更新2001-11-15 / 2014-09-17
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 白馬、常念、蝶の真白い山々を背負った穂高村にも春が一ぱいにやってきた。あんずの花が目覚めるように咲いた百姓屋の背景に、白馬岳の姿が薄雲の中に、高くそびえて、雪が日に輝いて谷の陰影が胸のすくほど気持ちよく拝める。
 乾いた田圃には、鶏の一群が餌をあさっている。水車の音と籾をひく臼の音が春の空気に閉ざされて、平和な気分がいたるところに漲っていた。
 一歩を踏み出して烏川の谷に入ると、もう雪が出てくる。しかし岩はぜの花の香が鼻をつき、駒鳥の声を聞くと、この雪が今にもとけて行きそうに思う。しかしやがて常念の急な谷を登って乗越に出ると、もう春の気持ちは遠く去ってしまう。雪の上に頭だけ出したはい松の上を渡って行くと、小屋の屋根が、やっと雪の上に出ている。夕日は、槍の後に沈もうとして穂高の雪がちょっと光る。寒い風が吹いてきて焚木をきる手がこごえてくる。軒から小屋にはいこんで、雪の穴に火を焚きながら吹雪の一夜を明かすと、春はまったくかげをひそめた。槍沢の小屋の屋根に八尺の雪をはかり、槍沢の恐ろしい雪崩の跡を歩いて、槍のピークへロープとアックスとアイスクリーパーでかじりついた時には、春なのか夏なのか、さっぱり分らなくなった。けれども再び上高地に下りて行くと、柳が芽をふいて、鶯の声がのどかにひびいてきた。温泉に入って、雪から起き上った熊笹と流れに泳ぐイワナを見た時に再び春にあった心地がした。
 春の山は、雪が頑張ってはいるけれど、下から命に溢れた力がうごめいているのがわかる。いたるところに力がみちている。空気は澄んで、山は見え過ぎるほど明らかに眺めることができる。夏の山より人くさくないのが何よりすきだ。これからあの辺の春の山歩きについて気のついたことを書いて見る。まず槍のピークについていわねばならない。
 槍沢の雪崩は想像以上に恐ろしい。どうしても雪崩の前に行かねば危険でもあるし時間も損をする。
 小屋から槍の肩まで、ただ一面の大きなスロープである。急なところとところどころになだらかなところは出てくるけれど、坊主小屋も殺生小屋も大体の見当はついてもはっきりとは判らない。ただ雪の坂なのだから。小屋から坊主とおぼしき辺まで、カンジキで一時間半とみればいい。スキーでもほぼ同じではあるが雪の様子でこの時間は違ってくる。時間を気にしないのならば肩までスキーで登ることができる。ただし一尺ばかり積った雪の下は氷なのだから、上の雪が雪崩れたら、アイスクリーパーの外は役にたたないが、それは恐らく四月末のことであろう。
 坊主の辺から肩までは、ひどく急な雪の壁で三方をめぐらされている。眺めているととても登れそうにも思われない。しかし登りだすと、どうにか登れてくる。肩に上ると雪は急に硬くなる。そしていままで大丈夫楽に登れると思った槍の穂が氷でとじられていることが判ってくる。
 試みにアックスでステ…

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