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文士の生活
ぶんしのせいかつ |
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作品ID | 2679 |
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副題 | 夏目漱石氏-収入-衣食住-娯楽-趣味-愛憎-日常生活-執筆の前後 なつめそうせきし-しゅうにゅう-いしょくじゅう-ごらく-しゅみ-あいぞう-にちじょうせいかつ-しっぴつのぜんご |
著者 | 夏目 漱石 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「筑摩全集類聚版 夏目漱石全集 10」 筑摩書房 1972(昭和47)年1月10日 |
初出 | 「大阪朝日新聞」1914(大正3)年3月22日 |
入力者 | Nana ohbe |
校正者 | 米田進 |
公開 / 更新 | 2002-05-27 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 8 ページ(500字/頁で計算) |
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私が巨万の富を蓄えたとか、立派な家を建てたとか、土地家屋を売買して金を儲けて居るとか、種々な噂が世間にあるようだが、皆嘘だ。
巨万の富を蓄えたなら、第一こんな穢い家に入って居はしない。土地家屋などはどんな手続きで買うものか、それさえ知らない。此家だって自分の家では無い。借家である。月々家賃を払って居るのである。世間の噂と云うものは無責任なものだと思う。
先ず私の収入から考えて貰いたい。私にどうして巨万の富の出来よう筈があるか――と云うと、ではあなたの収入は?と訊かれるかも知れぬが、定収入といっては朝日新聞から貰って居る月給である。月給がいくらか、それは私から云って良いものやら悪いものやら、私にはわからぬ。聞きたければ社の方で聞いて貰いたい。それからあとの収入は著書だ。著書は十五六種あるが、皆印税になって居る。すると又印税は何割だと云うだろうが、私のは外の人のより少し高いのだそうだ。これを云って了っては本屋が困るかも知れぬ。一番売れたのは『吾輩は猫である』で、従来の菊判の本の外に此頃縮刷したのが出来て居る。此の両方合せて三十五版、部数は初版が二千部で二版以下は大抵千部である。尤も此三十五版と云うのは上巻で、中巻や下巻はもっと版数が少い。幾割の印税を取った処が、著書で金を儲けて行くと云う事は知れたものである。
一体書物を書いて売るという事は、私は出来るならしたくないと思う。売るとなると、多少慾が出て来て、評判を良くしたいとか、人気を取りたいとか云う考えが知らず知らずに出て来る。品性が、それから書物の品位が、幾らか卑しくなり勝ちである。理想的に云えば、自費で出版して、同好者に只で頒つと一番良いのだが、私は貧乏だからそれが出来ぬ。
衣食住に対する執着は、私だって無い事はない。いい着物を着て、美味い物を食べて、立派な家に住み度いと思わぬ事は無いが、只それが出来ぬから、こんな処で甘んじて居る。
美服は好きである。敢て流行を趁う考も無いし、もう年を取ったからしゃれても仕方が無いと思って居るので、妻の御仕着せを黙って着て居るが、女などがいい着物を着たのを見ると、成程いいと思う。
食物は酒を飲む人のように淡泊な物は私には食えない。私は濃厚な物がいい。支那料理、西洋料理が結構である。日本料理などは食べたいとは思わぬ。尤も此支那料理、西洋料理も或る食通と云う人のように、何屋の何で無くてはならぬと云う程に、味覚が発達しては居ない。幼穉な味覚で、油っこい物を好くと云う丈である。酒は飲まぬ。日本酒一杯位は美味いと思うが、二三杯でもう飲めなくなる。
其の代り菓子は食う。これとても有れば食うと云う位で、態々買って食いたいと云う程では無い。煎茶も美味いと思って飲むが、自分で茶の湯を立てる事は知らぬ。莨は吸って居る。一事止した事もあったが、莨を吸わぬ事が別に自慢にもならぬと思…