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陰火
いんか
作品ID272
著者太宰 治
文字遣い旧字旧仮名
底本 「太宰治全集2」 筑摩書房
1998(平成10)年5月25日
初出「文藝雑誌 第一巻第四号」1936(昭和11)年4月1日
入力者赤木孝之
校正者湯地光弘
公開 / 更新1999-07-12 / 2016-02-23
長さの目安約 28 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

       誕生

 二十五の春、そのひしがたの由緒ありげな學帽を、たくさんの希望者の中でとくにへどもどまごつきながら願ひ出たひとりの新入生へ、くれてやつて、歸郷した。鷹の羽の定紋うつた輕い幌馬車は、若い主人を乘せて、停車場から三里のみちを一散にはしつた。からころと車輪が鳴る、馬具のはためき、馭者の叱咤、蹄鐵のにぶい響、それらにまじつて、ひばりの聲がいくども聞えた。
 北の國では、春になつても雪があつた。道だけは一筋くろく乾いてゐた。田圃の雪もはげかけた。雪をかぶつた山脈のなだらかな起伏も、むらさきいろに萎えてゐた。その山脈の麓、黄いろい材木の積まれてあるあたりに、低い工場が見えはじめた。太い煙突から晴れた空へ煙が青くのぼつてゐた。彼の家である。新しい卒業生は、ひさしぶりの故郷の風景に、ものうい瞳をそつと投げたきりで、さもさもわざとらしい小さなあくびをした。
 さうして、そのとしには、彼はおもに散歩をして暮した。彼のうちの部屋部屋をひとつひとつ[#挿絵]つて歩いて、そのおのおのの部屋の香をなつかしんだ。洋室は藥草の臭氣がした。茶の間は牛乳。客間には、なにやら恥かしい匂ひが。彼は、表二階や裏二階や、離れ座敷にもさまよひ出た。いちまいの襖をするするあける度毎に、彼のよごれた胸が幽かにときめくのであつた。それぞれの匂ひはきつと彼に都のことを思ひ出させたからである。
 彼は家のなかだけでなく、野原や田圃をもひとりで散歩した。野原の赤い木の葉や田圃の浮藻の花は彼も輕蔑して眺めることができたけれども、耳をかすめて通る春の風と、ひくく騷いでゐる秋の滿目の稻田とは、彼の氣にいつてゐた。
 寢てからも、むかし讀んだ小型の詩集や、眞紅の表紙に黒いハムマアの畫かれてあるやうな、そんな書物を枕元に置くことは、めつたになかつた。寢ながら電氣スタンドを引き寄せて、兩のてのひらを眺めてゐた。手相に凝つてゐたのである。掌にはたくさんのこまかい皺がたたまれてゐた。そのなかに三本の際だつて長い皺が、ちりちりと横に並んではしつてゐた。この三つのうす赤い鎖が彼の運命を象徴してゐるといふのであつた。それに依れば、彼は感情と智能とが發達してゐて、生命は短いといふことになつてゐた。おそくとも二十代には死ぬるといふのである。
 その翌る年、結婚をした。べつに早いとも思はなかつた。美人でさへあれば、と思つた。華やかな婚禮があげられた。花嫁は近くのまちの造り酒屋の娘であつた。色が淺黒くて、なめらかな頬にはうぶ毛さへ生えてゐた。編物を得意としてゐた。ひとつき程は彼も新妻をめづらしがつた。
 そのとしの、冬のさなかに父は五十九で死んだ。父の葬儀は雪の金色に光つてゐる天氣のいい日に行はれた。彼は袴のももだちをとり、藁靴はいて、山のうへの寺まで十町ほどの雪道をぱたぱた歩いた。父の柩は輿にのせられて彼のうしろへついて…

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