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パァル・バックの作風その他
パァル・バックのさくふうそのた |
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作品ID | 2764 |
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著者 | 宮本 百合子 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「宮本百合子全集 第十一巻」 新日本出版社 1980(昭和55)年1月20日 |
初出 | 「婦人文芸」1937(昭和12)年3月号 |
入力者 | 柴田卓治 |
校正者 | 米田進 |
公開 / 更新 | 2003-03-19 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 9 ページ(500字/頁で計算) |
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中国という国へ、イギリスやアメリカの婦人宣教師が行って、そこで生活するようになってから、何十年の年月が経ったであろう。それらの婦人たちは、それぞれの歴史的な時期で中国の男女の生活を見聞きして、生活の交渉をもって来たわけであるが、パァル・バックの作品を知るまで私は、そういう条件で中国にいて、中国を小説に描いたヨーロッパの婦人作家を知らなかった。
「大地」「母」などを、私は深い興味をもって示唆されるところ多く読んだ。正宗白鳥氏が嘗て「大地」の評を書いておられたが、その文章ではバックの淡々たる筆致が中国の庶民の生活をよく描き出しており、それは、バックがヨーロッパ人の優越感によって、中国の民衆の現実を客観しているところから生じる芸術的効果である。よい作品を書くに当って、この客観的な態度というものもまた価値がある云々という意味のことが書かれていたと覚えている。
「大地」や「母」などをよみ、私は、正宗さんの批評をそれだけ読んだ折にも心に感じた疑問を、一層作品の具体的な描写によって深められた。正宗さんの云われているヨーロッパの人としての優越感からの客観性が、果してこの作品の魅力となっている人間らしさを生んでいるのであろうか。或はまた、もっと複雑な何かがあるのではないかと。正宗さんの批評では、客観的態度というものを、作者が描こうとしている現実対象に心をとらわれていず、そこから自分の心をひきはなして、現実の悲喜の彼方に自分を置いた作者がその距離から悲喜をかく態度として云われていると思う。だが、バックの現実に対する態度は果してそうであろうか。
バックは、主観にとらわれたり、いきり立ったりしない筆致で描いているけれども、例えば女奴隷である阿蘭が王龍の妻にもらわれて僅の荷物を腕にかけて行くところ。その路々王龍が青い桃を阿蘭にやり、歩きながら阿蘭がそれをかじってゆくところ、赤い辻堂の場面、更に子供のために布を買う阿蘭の姿など、作者の女としての同感、同情、思いやりというものが惻々と底にながれ、感傷をおさえた描写の中に脈うっている。バックの短い伝記で見ると、彼女は中国で生れているのであるから、中国の庶民生活はよく知っているであろう。ただ、よく知っている、その細部を描写しているというだけでない暖かさが阿蘭を描くバックの筆致にこもっている。そこには何か女であって初めて実感となって作者の感情の内容となっていると感じられるものが流動しているのである。外国人によって細かく観察された描写という以上の血縁的なものがある。
「お菊さん」を書いた、ピエール・ロチの筆致は実に細かで敏感で、長崎の蝉の声、夏の祭日の夜の賑い、夜店の通りを花と一緒に人力車に乗って来るお菊の姿の描写などは、日本人では或はああいう風な色彩的な雰囲気では書けないであろう日本的なものを活々と描出している。だが、ロチの観察には、冷やか…