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文学上の復古的提唱に対して
ぶんがくじょうのふっこてきていしょうにたいして |
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作品ID | 2767 |
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著者 | 宮本 百合子 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「宮本百合子全集 第十一巻」 新日本出版社 1980(昭和55)年1月20日 |
初出 | 「都新聞」1937(昭和12)年3月8~11日号 |
入力者 | 柴田卓治 |
校正者 | 米田進 |
公開 / 更新 | 2003-03-21 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 13 ページ(500字/頁で計算) |
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一 古典摂取の態度
この間、ある人に会ったら、こういう話が出た。どこかの宴会でその人が日蓮宗の坊さんに逢ったら、その坊さんが、この頃では私共も古事記なんかをよまないとものが云えないようになりました。五・一五頃の若い軍人は殆ど日蓮宗でしたが、近頃はああいう連中が誰も彼も古事記を読みますんで、ということであったそうだ。
岩波文庫に古事記が出ていて、岩波さんに云わすと、あれは実は改版したいのだそうだ。余りよくないと出版社の良心から思っているのだそうだが、どういうわけか近頃はあれが出て、刷っても刷っても売り切れるので、と微妙な痛し痒しを経験しているらしい様子であるとも聞いた。
今日文学の仕事にたずさわる者としてこれらの話をきくと、なかなか面白いものがある。
文学の面ばかりにこういう復古的傾向が見られるのではなくて、音楽の方でも、例えばこの間ピアニストのケムプが来た時、最後の演奏会の日に即興曲を弾いて貰うこととなり、聴衆からテーマを求めた。そのとき出された日本音楽からのという条件つきのテーマは、雅楽からのハーモニイであった。
今日の日本の文学の動きと密接なつながりをもって、古典研究が取上げられはじめたのは、特にこの二三年に目立って来た現象である。号令をかけて馬にのる人々も、文学的な感情をゆたかにして古事記や万葉集を読むとしたら、結構なことと云わざるを得ないのであるけれども、文化の全面を社会の現実の有様と照らしあわせて眺めると、理解はしかく皮相、単純なところに止まっておられないと思える。佐佐木信綱氏は、ああいう学派の歌人として万葉の専門家であり、研究著書、註解など権威ある労作がある。だが、それらの著作の完成した数年前は、今ほど万葉が一般に注目されていなかった。林房雄氏、小林秀雄氏等が万葉の精神などということは当時なかったのである。
雑誌『コギト』による保田与重郎氏は近頃、以上の人々とは又違った陣立てを考案している。その陣の構えは何と云おうか。昨年二月の二十六日に東京駅前の大通りをずっとつき当りの広場の方へ通った通行人は、あちらを背にして、駅に向った方に前面を向けて整列している一団の兵を、余程後になってから、「今からでもおそくない」と云った方ではなくて云われた方の側であったことを知ったという噂をきいたことがある。
文学の古典研究の陣立てに、こういう兵法のようなものを思い泛ばせるというのは、評論家である保田氏として誇るに足ることであるだろうか。
二三年前、文学における古典の摂取が云われはじめた時分は、プロレタリア文学運動の退潮を余儀なくさせた社会事情が他面対立的な文学にも貧困の自覚を与えており、それに対して文芸復興が唱えられ、古典の摂取は、当時にあっては、現代の文学的発展のための一助として、教養として云われていたのであった。
その頃に於て…