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人生の共感
じんせいのきょうかん |
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作品ID | 2807 |
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副題 | 求められる文学について もとめられるぶんがくについて |
著者 | 宮本 百合子 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「宮本百合子全集 第十一巻」 新日本出版社 1980(昭和55)年1月20日 |
初出 | 「文芸」1939(昭和14)年8月号 |
入力者 | 柴田卓治 |
校正者 | 米田進 |
公開 / 更新 | 2003-03-13 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 11 ページ(500字/頁で計算) |
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今日、私たちが文学に求めているものは何であろう。求められている文学とは、どういうものだろう。
部分的ないろいろの要求というものは、いつもあったし、これからもずっと自分にもひとにも持たれつづけると思うが、特にきょう私たちが文学に求めている何かは、文学の本質にふれた何かであり、人生に向う心持の底の方にある何かの反映であるように思われる。日々に生きている感情のなかでジリッと何かが求められているのである。それが、あの作品、この作家への箇々の不満という風なものと直接結びつかず、云ってみれば、この人生とめっぱりこな気持のなかで求められている感じなのは面白いところであると思う。
多かれ少なかれ、今日の現実は人々の心に文学への要求としてそういうものを目醒めさせているのだろう。だから、室生犀星氏のような、ああいう意図的に小説の世界を小説の世界としてこしらえつづけて来ている作家が、作家生活の時期時期によって何処で所謂小説の鬼神をつかまえて見せるか、そのこともやまも知りきっているひとが、今日は小説らしい小説を書いていずに、現実にいきなりぶつかって行けというようなことを云っていられたりもするのだろう。
いろいろな作家によって、散文精神ということも云われている。だが、面白いところは、今日文学に求める何かを切実に感じて胸にもっている多くの人々は、いろいろの作家がいろいろの表現でそれぞれの探求を表現しているのをもちろん注意ふかく、敬意をももって見守ってはいるのであるが、しんのしんのところでは、漠然と、その道から来るものがあるだろうかという疑いを払いのけ切れずにいるところであると思う。
中堅と云われ、旺に作品活動をしながら今日のこういう要求に身をさらしている作家たちの在りようは、いずれもなかなか野望に満ちているし、文学上の身ぶりも大きく、埃も泥も物かはという風であるが、それが猶且つ、文学に何かを求めている今日の感情に対してはそれぞれの作家そのひとひとの作家的な身ごなしという印象を与える範囲にあるのは、何故であろうか。ああ、ここにこれが、とめぐり合いのよろこばしい感じで心を打って来る刹那の瑞々しさは、作品の世界の一般に欠乏している。
ここには簡単に云いつくされない、幾つもの条件がたたまって来ていると思う。
二三年前に、過去の身辺小説の狭さがとりあげられ、そこからの脱出として、よりひろい社会的な題材へ一部作家の関心が向けられて、少しそういう作品が出かかったとき、事変になって、急速に周囲の調子が変った。題材から云えば、そのまま一層ひろく、ひろくと拡がってゆき、拡りかたは如何にも惶しかったが、程なくその奔走の姿も新しい看察を伴ってみられるようになり、現在ではあれこれ表面的な題材に拘泥せず、今日の荒い現実のなかへ作家は身ぐるみとびこんで描けという気風にあると思う。
長篇・短篇と形の上…