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文学と婦人
ぶんがくとふじん
作品ID2817
著者宮本 百合子
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第十一巻」 新日本出版社
1980(昭和55)年1月20日
初出「読売新聞」1940(昭和15)年4月9日号
入力者柴田卓治
校正者米田進
公開 / 更新2003-03-23 / 2014-09-17
長さの目安約 2 ページ(500字/頁で計算)

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本文より




 この頃はともかく婦人作家の活動が目に立って来たけれども、婦人の評論家が出ないうちは、文学への全面的な進出として語ることは出来ないという意味の文章が、先頃某紙の文芸欄にあって、いろいろ面白く思った。
 明治以来今日まで日本文学を押しすすめて来た文学への責任が、一半は婦人の肩にもかかっているものだと男の作家によって思われた時代が嘗ていつ在っただろうか。そういう全体の歴史への意味での責任を自身の文学に感じて仕事を貫いたという婦人作家があっただろうか。日本に婦人のしゃんとした評論家が生れて来るのは、なかなか簡単な飛躍ではないと思える。社会的なものが深くかかわりあっている。例えば評論家と全く裏がえしの文化面に立つ大衆小説家でさえ、日本ではまだ吉屋信子を元老としなければならない状態なのだから。文化の社会的なひろがり、高まりとの関係では、十人二十人の婦人大衆作家がいて、はじめて一人二人の文芸評論家も現れる可能が準備されるようなわけであろう。アメリカにもイギリスにも婦人の通俗作家、探偵小説の作者はあんなにいて、それだけの文化と文学の土台から評論家として立っている婦人は恐らく十指に満つまい。
 文学においても、婦人の活動の最低の線がどこまで拡がり且つ上って来ているかということが問題であろう。文学における婦人の自然発生なありようがとりあげられるならば、それは男をこめて社会生活全面の照りかえしとして語られることだと思われる。
〔一九四〇年四月〕



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