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![]() しゅんせつせん |
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作品ID | 2844 |
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著者 | 葉山 嘉樹 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「日本プロレタリア文学集・8 葉山嘉樹集」 新日本出版社 1984(昭和59)年8月25日 |
初出 | 「文芸戦線」1926(大正15)年9月号 |
入力者 | 林幸雄 |
校正者 | 伊藤時也 |
公開 / 更新 | 2010-02-24 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 11 ページ(500字/頁で計算) |
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私は行李を一つ担いでいた。
その行李の中には、死んだ人間の臓腑のように、「もう役に立たない」ものが、詰っていた。
ゴム長靴の脛だけの部分、アラビアンナイトの粟粒のような活字で埋まった、表紙と本文の半分以上取れた英訳本。坊主の除れたフランスのセーラーの被る毛糸帽子。印度の何とか称する貴族で、デッキパッセンジャーとして、アメリカに哲学を研究に行くと云う、青年に貰った、ゴンドラの形と金色を持った、私の足に合わない靴。刃のない安全剃刀。ブリキのように固くなったオバーオールが、三着。
「畜生! どこへ俺は行こうってんだ」
樫の盆見たいな顔を持った、セコンドメイトは、私と並んで、少し後れようと試みながら歩いていた。
「ヘッ、俺より一足だって先にゃ行かねえや。後ろ頭か、首筋に寒気でもするんかい」
私は又、実際、セコンドメイトが、私の眼の前に、眼の横ではいけない、眼の前に、奴のローラー見たいな首筋を見せたら、私の担いでいた行李で、その上に載っかっている、だらしのないマット見たいな、「どあたま」を、地面まで叩きつけてやろう! と考えていたのだ。
「で、お前はどこまでも海事局で頑張ろうと云う積りかい?」
と、セコンドメイトは、私に訊いた。
「篦棒奴。愚図愚図泣言を云うない。俺にゃ覚悟が出来てるんだ。手前の方から喧嘩を吹っかけたんじゃねえか」
私は、実は歩くのが堪えられない苦しみであった。私の左の足は、踝の処で、釘の抜けた蝶番見たいになっていたのだ。
「お前は、そんな事を云うから治療費だって貰えないんだぞ。それに俺に食ってかかったって、仕方がないじゃないか、な、ちゃんと嘆願さえすれば、船長だって涙金位寄越さないものでもないんだ。それを、お前が無茶云うから、船長だって憤るんだ」
セコンドメイトは、栗のきんとん見たいな調子で云った。
そのきんとんには、サッカリンが多分に入っていることを、私は知っていた。その上、猫入らずまで混ぜてあったのだが、兎に角私は、滅茶苦茶に甘いものに飢えていた。
だものだから、ついうっかり、奴さんの云う事を飲み込もうとした。
涎でも垂らすように、私の眼は涙を催しかけた。
「馬鹿野郎!」
私は、力一杯怒鳴った。セコンドメイトの猫入らずを防ぐと同時に、私の欺され易いセンチメンタリズムを怒鳴りつけた。
倉庫は、街路に沿うて、並んで甲羅を乾していた。
未だ、人通りは余り無かった。新聞や牛乳の配達や、船員の朝帰りが、時々、私たちと行き違った。
何かの、パンだとか、魚の切身だとか、巴焼だとかの包み紙の、古新聞が、風に捲かれて、人気の薄い街を駆け抜けた。
雨が来そうであった。
私の胸の中では、毒蛇が鎌首を投げた。一歩一歩の足の痛みと、「今日からの生活の悩み」が、毒蛇をつッついたのだ。
「おい、今んになって、口先で胡魔化そう、ったって駄目だよ…