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二つの場合
ふたつのばあい
作品ID2859
著者宮本 百合子
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第十巻」 新日本出版社
1980(昭和55)年12月20日
初出「輝ク」1934(昭和9)年11月17日号
入力者柴田卓治
校正者米田進
公開 / 更新2003-02-11 / 2014-09-17
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 先頃、山川氏の『朱実作品集』を、いろいろの点から興味ふかく読んだ。それと前後して窪川いね子の作品集『牡丹のある家』を読んでいたのであったが、私は、全く内容の種類を異にしたこの二つの作品集から、計らずも一つの共通した印象を与えられた。それは『朱実作品集』の中にも、『牡丹のある家』にも、もしそれ等がまとまった一つの中篇或は長篇として扱われていたら、芸術品として更に強い効果を示したであろうと思われる連作的短篇があったことである。
『朱実作品集』の十二の短篇は「久米子の一日」「寒い夜」「留吉」などを一応どけたあとのものは、どれも一人の女主人公を中心として描かれるべき長篇の部分部分であると思われた。『牡丹のある家』において「小幹部」「幹部女工の涙」「何を為すべきか」の三篇が一貫して長篇に書かれていたならば、私達は、紡績産業組合における日本では代表的な労働貴族としての女工のタイプと大衆としての女工の階級性とを、もっとはっきりと広い社会的背景の前に理解することが出来たであろう。
 私は、何故、これら二人の根気づよい婦人作家が、少なからぬ内容のある作品をそのように小さく区切って書いて行ったのであろうかと、そこへ注意をひかれたのであった。
 そして、この外見には同じような二つの現象が、その根源においては、決して同一のものの上に立っていないという発見に到着したのであった。
 忌憚ない言葉を許されるならば、『朱実作品集』は、作者が題材に向って勇敢になれなかったところから長篇として書き得なかったと信じる。題材に立ち向って山川氏は作家となり切っておらない。別の言葉でいうと、作者は、作者にとって身近な女主人公の生活を、客観的にひろい社会性の繋りにおいて観て、その喜憂と努力と苦悩とを芸術の中に掌握し活写することを得なかった。作者は、困難な課題をふくんだ生活の部分をその実際生活と作品の構成からどこかひっそり目に立たぬよう引抜いていると感じられる。そのためにこれ程反覆され、殆ど既に長篇になりかかっている題材が、はっきり主題を押しすすめるところの芸術的統一を失っていることを私は遺憾に思ったのであった。
 このことは勿論卑俗な実話的意味で、作者が所謂裸になっていないことを指しているのでないことは明らかであろう。作品に形象化された現実が人をうつのは、それが只実際そうであったというとおりに書き連ねられたからではないところに芸術の面白さがあると私は思う。我々がどちらかといえば粗忽に見すごして生きている社会の現実が、その錯綜と矛盾との生々した姿の本質にまで突きいって、社会的・歴史的意味を自ら明らかにしつつ作品の中に再現せられているからこそ私達はひきつけられる。文学におけるリアリズムと単なる経験主義、瑣末な日常写実主義との本質的な相違点はここにあると思われるのである。
 窪川いね子の場合は、彼女がその原…

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