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遠い願い
とおいねがい |
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作品ID | 2903 |
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著者 | 宮本 百合子 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「宮本百合子全集 第十二巻」 新日本出版社 1980(昭和55)年4月20日 |
初出 | 「知性」1940(昭和15)年12月号 |
入力者 | 柴田卓治 |
校正者 | 松永正敏 |
公開 / 更新 | 2003-04-11 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 5 ページ(500字/頁で計算) |
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一人の作家の生涯を、そのひとの一生が終ったあとで回顧するときには、誰しもその作家の生きた時代や、その時代にかかわりあって行ったその人らしい生きかたの姿を、比較的はっきりつかみ出して、観察することも批評することも出来る。
しかし、作家たちめいめいが生きて仕事をしている真最中で、しかも時代はおそろしく迅速に展開しているようなとき、その相互的な関係の中で行われる作家個人の成長と時代の歴史的な消長との摩擦、融合の過程は恐ろしく複雑で、云ってみれば本人にもその実相が掴みにくいようなことなのではないだろうか。
はたからは、云いならわされている通りおか目八目で、そのいりこんだ関係の大略が見えている場合もあって、いろいろの観察が下されてもゆく。だけれども、作家当人は、生活も文学も自分の内心で自分を動かす極めて執拗で強情でわき目をふりたがらない何かの力によって推しすすめて行っていて、その道は誰に何と云われようとわが足でふみしめて見なくてはおさまれないのだから、その最中には、はたの観察をいきなりそれを承認した形ではうけとり難いものだろうと思える。
作家と批評家との関係で、作家の側から屡々作家を育てるような批評がない、と文芸評論への軽侮のように表現されるけれども、それはそれだけが作家の心理の現実の全体ではないのではなかろうか。時を経ても、作家というものは自分の作品について心に刻みこまれた評言の切れ端だって忘れてしまうことはないのだから、何につけ彼につけ、その印刻は心のなかで揉まれほぐされ吟味されつづけて、その無言内奥の作業の果、遂に作家が明らかな確信をもって批評を評価しきったとき、はじめてその批評は心のそとに忘られてゆくのだと思う。そのときは、作家にとってその批評から学ぶべきものが十分心に吸収されてしまったか、さもなければその批評を加えたひとの人生態度に迄せまって作家としての批評を加え終ったときか、或は、その批評のくいちがいそのものの間から、批評したひとの全然知らない別の何ものかを、作家がわが芸術の糧としてひき出したかしたときなのである。
ひところ文芸評論の萎靡が人々の注目をひいて、文芸雑誌はそのために関心を示した。文芸評論が再び興隆したという意味とはちがう形で、その頃文学の領域には議論が盛だと思う。随分議論だらけである。けれども、作家と時代とのいきさつを、本当に大局からみて、歴史の足どりがその爪先を向けている磁力の方向と、その関連に於て作家一人一人がそれなしに文学は創造もされず存在もしない個々の独自、必然な道をどう見出して行くかということについて、何となし遠く大きい見とおしのあることを感じさせる議論は、割合に多くない。文芸評論にあらわれた変化としてそういう現象そのものが、今日の日本の社会と文学の性格を語っているのであるけれども、日本というものが益々世界的規模で考えられ…