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今日の作家と読者
こんにちのさっかとどくしゃ
作品ID2911
著者宮本 百合子
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第十二巻」 新日本出版社
1980(昭和55)年4月20日
初出「帝国大学新聞」1941(昭和16)年2月24日号
入力者柴田卓治
校正者松永正敏
公開 / 更新2003-04-17 / 2014-09-17
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 この一二年来、文学的な本を読む読者の数がぐっとふえていることは周知の事実であって、それらの新しい読者層の何割かが、通俗読物と文学作品との本質の区別を知らないままに自身の購買力に従っているという現象も、一般に注意をひいて来ている。そこに、今日の文化の地味の問題だの文学の成長の可能性の問題が、複雑な現今の社会生活の一面として横たわっていることに就て、総ての作家が無関心に暮しているわけでもないと思う。
 けれども、飾ない落付いた目で省みると、この読者層の質の推移ということの実際は、昨今急速にその人たちのことから私たちのことにまで拡がって来ているのではなかろうか。作家・評論家はそれぞれ各々の読者をもっている。読者というものをその関係の範囲に従来どおり固定させて、その質が推移しつつあることが注目されたのは一年余り前からだが、今日では状態が更に動いて、読者層の質について語ろうとすると、私たちの生活の中から、作家も評論家も読者を持っているというばかりでなく、自身が何かの形で誰かの読者ならざるを得ないという実際が浮び上って来て、それをもひっくるめたとき初めて読者層の質の問題が現実に即して考えられるように思われるのである。
 作家・評論家自身がどのような質の読者として今日立ちあらわれているか、そして自身の状態をどのように自覚しているかということが、それぞれの周囲にある読者圏へ作用し作用されつつ、文化や文学の明日に影響する因子をなしていると思う。読者の問題は、もう作品を生み出してゆく人々自身がどういう質の読者であるかというところまでダイナミックに観察される時代になっている。そして、近頃は、その点でいろいろ深く考えさせられる実例が多い。何故なら、二三年前には文学の仕事にたずさわる人々は特別な専門に従って特別な本を輸入もしていた。それらについて云わば種本ともしていたのだが、このごろは、そういう便宜が次第に失われて来て、大掴みに云えば誰も彼もが大体に同じようなものを読むしかなくなっている。これまでは非常に個人的な系統と統一とをもって形づくられていた一人の作家・評論家の読書が、近頃ではその水脈にさしつかえが生じたと共に、社会の大きな動きそのものがおのずからこれまでの読書の埒をはずさせる点もある。大体皆が同じものを読むことが多くなればなるほど、それに対して自分たちがどういう質の読者であるかということが作家・評論家にとって益々重大な意義をもって来る。そこが、はっきりとして初めて、その人々の読者にとってその作家・評論家がどういう存在であるかという点も明瞭につかまれることになるのである。
 例えば今大変読まれている本にアンドレ・モーロアの『フランス敗れたり』がある。この本の読まれる理由は十分あると思える。日本の近代文学にフランス文学がどのように影響しまた風土化されたかということ迄を考えないひ…

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