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実感への求め
じっかんへのもとめ
作品ID2920
著者宮本 百合子
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第十二巻」 新日本出版社
1980(昭和55)年4月20日
初出「日本学芸新聞」1941(昭和16)年6月10日号
入力者柴田卓治
校正者松永正敏
公開 / 更新2003-04-23 / 2014-09-17
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 先月、日比谷映画劇場で、国際観光局が海外宣伝映画試写会をもよおした。「富士山」と「日本の女性」という二つの作品で、其映画のはじまる前に、映画製作に直接関係した課の長にあたる人の挨拶があった。これまでの日本の映画音楽がよくなかったので、この二つには特に新進の作曲家たちの労作を得た。
「所期の成果をおさめて居りますかどうかは、専門家の方々の御意見と海外の観衆の批判にまたなければならないところであります」そういう意味の言葉であった。
 それをきいていて私たちは何となし妙な気がした。日本のなかでは、専門家にしかその映画音楽のよしあしがわからないと思っていられるのであろうか、と。そして海外の観衆と云えば、それが分るものと、しんから承認され得るのだろうか、と。
 現代の映画は、日本の文化の一番高い峰よりはいつもずっと低いところでしか作られて来ていないこのことについて、知っている人は皆知っている。
 そのように映画が低いところで作られてゆく諸原因を改善してゆきたい希望と骨折りとは、其の事実を知っている人々が間接直接に自分にもかかわる文化上の責任として忘れてはいないことであると思う。
 私たちはそういう感情をもってその朝の試写会にも行っているわけであった。映画の専門家でもないし、音楽の専門家でもないし、宣伝の専門家でもないけれども私たちがそういう感情のなかでそういう映画も観るというところに、日本の今日の文化の生きた実質がある。
 挨拶をされた人の感覚は、そこをつかんでいなかった。
 自分たちの国からこしらえてやるものとしての情愛が、試写会に来ているあらゆる人々の胸底にめざまされてゆくような、そういう感情へのアッピールは、挨拶の言葉の中からも作品の世界からも迸って来なかった。
 或るドイツの人が、「日本の女性」を評して、あれは日本の方には面白いかもしれないが私たち外国のものにはそうでない、と云ったという話をちらりと聞いて、私たちは苦しく笑わざるを得ない。だって、私たち日本のものも、あれを面白かったとは感じ得なかったのだから。しかし、私たち日本のものに面白くない作品は外国の人にも大した興味はないのだという自然で明白な事実を、日本の一部ではそれなら当然なこととして判断のなかに摂取してゆかないような一種の風がある。そんな習慣にしろ日本の文化の世界的には未熟なある性格がそこに語られているのであると思う。
 国民文学について様々の論議があるのだが、それを私たちの文学の実感として感じとろうとするとき、この映画についての場合とそっくりそのままではないけれど、どこか共通のような、何となしまだしん底から湧き出て来る水脈に触れていない心持がある。
 国民文学と呼ばれるからには、その作品が本当に日本の私たちの刻々の生のなかから生れたものであると感じさせる魅力と同感とを湛えているものでなければなら…

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