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「保姆」の印象
「ほぼ」のいんしょう |
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作品ID | 2923 |
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著者 | 宮本 百合子 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「宮本百合子全集 第十二巻」 新日本出版社 1980(昭和55)年4月20日 |
初出 | 「日本映画」1941(昭和16)年10月号 |
入力者 | 柴田卓治 |
校正者 | 松永正敏 |
公開 / 更新 | 2003-04-26 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 6 ページ(500字/頁で計算) |
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「保姆」いろいろの意味で興味ふかく観た。シナリオを書かれたのが厚木たか氏という女性であることも、そしてこのひとは以前「文化映画」を翻訳しておられることも、こういう種類の記録映画の制作に何となし期待させるものがあったと思う。
シナリオを書くのも随分根気よく保育所の毎日の生活を一緒に経験しつつ、作られて行ったときいている。
勤労の生活をしている両親の子供たちを、保育する仕事をとおして、母親の再教育へという保育所の成果を、ありのままの瞬間の中にとらえて物語ろうとした制作者たちの意図は、熱意も十分感じられ、かなりまで表現されていたと思う。
保育所の界隈の街の様子、往来に溢れている生活、それから家庭の中へ、親たちの仕事場のまわりへまでカメラが動いて行った深さは、よかった。
こういう縦の追求は「保姆」に非常に生活的な奥ゆきを与え、描写そのものがみるものにたくさんの人間生活の課題を暗示して、真面目な芸術性をもゆたかにしていると感じた。
一つ二つの場面をのぞいただけで全部が保育所の一日からのスケッチで制作されているということも独特な活々した味を与えているのだが、私ひとりの感じでいうと、或る箇所ではもう少しその対象にカメラが粘って観せてくれたら、さぞその面白さに堪能するだろうと感じられたようなところがいくつかあった。例えば小さい子供たちが、初めて提灯の切りぬきを習っているところ。一人のくりくり頭の男の子が、一心不乱に口を尖らせて切りぬきをやりはじめる。それを見ている私たちは、思わず自分たちまで口をとんがらしながら笑いを湛えて観ているのだが、子供の作業としてもまだそれが終りにも近づかないうち、従って、私たちの親愛な笑いや罪なさにかえったような心持が自然のリズムで推移しはじめるより早く、カメラはその対象から離れてしまう。呼び醒まされた一定の感興はそのために中絶され、何となし物足りなさが残される。感傷的に一つ一つの子供の顔の面白さに足をとられてゆくことは不必要だろうけれど、その瞬間の対象とそれをみるものの感情とがもとめるだけのゆとりは計量されなければならないのではないかしら。もっとも人によって、感性のタイプにちがいはあるだろうけれど。私にすればああいうところをもうすこし悠々とみせて欲しかった。
この切り抜きを習う場面と、鋏を使う面白さを覚えたばかりの子供が家へかえると何の切りぬき絵も持っていないところから、母さんが縫ったばかりの着物をジョキジョキとやって、母親はそれを悪戯として当惑し、保姆はああ本当に鋏を使いはじめたことお知らせするとよかったんですね、と実際から教えられる一つの插話は、この映画にとっては本質的な問題がそこにあらわれたものだったと思う。単なる插話という以上の子供と大人の生活のいきさつが圧縮されて出ているので、こまかに事柄を追ってみれば、ここに叱る母の無理な…