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漱石と自分
そうせきとじぶん
作品ID2928
著者狩野 亨吉
文字遣い旧字旧仮名
底本 「狩野亨吉遺文集」 岩波書店
1958(昭和33)年11月1日
入力者はまなかひとし
校正者染川隆俊
公開 / 更新2001-06-29 / 2014-09-17
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 夏目君のことを又話せといふが、どんなことにしろ物事の眞相が誤まらずに傳へられることは稀であり、その上近來甚だ記憶が不確であるからあんまり話をしたくない。
 夏目君に最初に會つたのは死んだ山川信次郎氏の紹介であつたと思ふ。尤もこれよりも前に自分が全然關係が無かつたといふわけでもない。日本で最初に中學校令の發布によつて出來た東京府第一中學に、明治十二年に自分は入學したのであるが、その折夏目君も又同じ學校に入つてゐた。しかしその頃は無論お互に知らずに過ごして何の記憶もない。
 この學校には、正則科と變則科といふのがあつて、自分は變則科で夏目君や幸田露伴氏などは正則科であつた。變則科といふの方は一切を英語でやることになつて居り、正則科はさうでない。この學校に一緒にゐたのが後年の文部省畑の連中で岡田良平、上田萬年、澤柳政太郎などであつた、時々自分などがさういふ連中とともに名前を引ぱり出されたのはそんな因縁によるものだらう。
 夏目君は大學卒業後、傳通院の傍の法藏院といふのに菅君が前にゐた關係から下宿したが、そこは尼さんが出入りすると言つて、それを恐れてどうも氣に入らぬ、それでは俺のところへ來いと、菅君がその頃住つてゐた指ヶ谷町の家へ引ぱつて行つた。そこで最初に菅君を驚かすやうなことがあつたのだが、それは菅君が一番詳しく知つてゐる事で、自分が語るべきではない。
 又これらのことは夏目夫人が或は『思ひ出』の中に書いてゐるかも知れない。一體自分の知つてゐることは多分『思ひ出』の中やその他にすでに發表されてゐて、世人に耳新しいことはないだらう。又あるとしてもそれは下らないことであるからここに話すのも無駄のやうに思ふのだ。
       *
 さて夏目君と自分が一番多く會つてゐたのは熊本時代で、自分が行くより先に彼は行つてゐたのであるが、その時分は毎日のやうに會ふ機會があつたが、大してお話するやうな事柄も記憶にない。その後夏目君が洋行して、ロンドンの宿で鬱ぎ込んでゐるといふ消息を誰かが持つて來た。慰めてやらなければいかんといふのだが、その第一の理由は熊本へ歸りたくない、東京へどうかして出たいといふにあるらしい。
 そこで自分が其頃は熊本から一高へ來て校長をしてゐたので菅君や山川君が夏目を一高へ取れといふ。しかし熊本から洋行して歸つたらすぐに一高へ出ると言ふのではまづいので、大學の方で欲しいといふことも理由となつて遂に一高へ來ることにきまつた。
 それですぐロンドンへ東京に地位が出來るといふことを報せる爲電報を打つた。それに對する返事だと思ふが長文の手紙を寄越した。その手紙は菅、大塚、山川、自分などに連名で宛てたもので、相當に理窟ぽいことも書いてあつたやうに覺えてゐる。その手紙は確自分が持つてゐる筈と思ふが、あるとしても一寸探し出せないやうなところに入つてゐるのだらう。先日この…

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