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日本上古の状態
にほんじょうこのじょうたい |
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作品ID | 2941 |
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著者 | 内藤 湖南 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「内藤湖南全集 第九卷」 筑摩書房 1969(昭和44)年4月10日 |
初出 | 「歴史と地理」1919(大正8)年2月 |
入力者 | はまなかひとし |
校正者 | 菅野朋子 |
公開 / 更新 | 2001-10-24 / 2016-04-20 |
長さの目安 | 約 13 ページ(500字/頁で計算) |
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從來日本史の研究は、何れの時代を問はず、本國の側から觀察するが常であつた。たまに松下見林の異稱日本傳の如く、他國の側からこれを見たものもあるけれども、これは極く稀な例であつて、殊に徳川の中世以後、國學が發達してから、其の研究法が當時の漢學者に比して寧ろ進歩して居り、學術的に近い爲に、その日本中心主義の研究法をます/\一般に是認せしむる傾向を強めた。それで藤貞幹などの如く多少考古學の樣な見地から、古代史を他國の側から見ることを思ひ附いた人があつても、それは國學者の激しい反感を買ふに過ぎずして、其の研究法が完成するに至らなかつた。尤も中には本國中心主義とは稱しながら、平田篤胤等の如く、他の國の古代状態を研究して、それを本國の古代史に比較しようと試みたものもある。然し此の方法は其の外形が依然として本國中心主義であるが爲に、多數の低能な國學者には、其のきはどい研究法が理解せられずに終つたことが多い。明治以後史學が盛になつたと云つても、やはり此の本國中心主義が依然として國史界を支配して居り、少しきはどい研究法を用ゐると、動もすれば神職及び教育家等から道具外れの攻撃を受ける事を常とした。その癖、民族論並に言語學的の研究等に就いては、好んで其の系統を國外に求めんとする傾が盛であるに拘らず、國史の研究はどこまでも本國中心でなくてはならぬとし、日本國の成立せる素因を幾分外界の刺激に歸することさへも不都合とし、外國の材料に依つて研究することは、動もすれば記録の不確實なる朝鮮の歴史から推究さるゝことは寛容しながら、記録の確實なる支那の歴史より推究さるゝことを務めて排斥する傾が多かつた。それ故日本上古に關する見解の程度は、今日に於ても依然として國學者流の圈套を脱しない。これは今後の研究に於いて、國史上の一大問題とせなければならぬ。
今その支那の記録から見たる日本上古史に就いて、一々考證的に論ずるに暇ないが、大體右の如き研究法に依りて、やゝ自由に考へ得らるゝ所の結論だけを、茲に聊か述べて見たいと思ふ。
大體此の日本が倭國として支那に知られたのは支那の戰國の末年からであると思はれるが、支那の戰國の末年は東洋全體の各民族にとりて重要な時期であり、從つて支那史が東洋史となるべき基礎を形成した時代であると云ふことが出來る。支那は春秋戰國時代に於いて疆土が分裂し、内亂にこれ日も給らなかつた樣であるが、然し其の爲に支那民族の發展を著しく擴大した。春秋の末年に既に南方に於いて呉若しくは越の如き蠻夷が國を形造つた。それと同樣の事情に於いて北方では燕の國が形造られた。而して戰國に入るに從つて數十の國々が段々に併合されて、戰國の末年には僅かに十ヶ國内外になつてしまつた。而して互に富國強兵の術を競うて、國力の發展に務めたが爲に、内部にあつて四面強國に限らるゝ國の外は、皆外部に向つて發展した。楚がます…