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雌に就いて
めすについて |
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作品ID | 296 |
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著者 | 太宰 治 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「太宰治全集1」 ちくま文庫、筑摩書房 1988(昭和63)年8月30日 |
初出 | 「若草」1936(昭和11)年5月 |
入力者 | 柴田卓治 |
校正者 | 鈴木伸吾 |
公開 / 更新 | 1999-08-01 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 11 ページ(500字/頁で計算) |
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フィジー人は其最愛の妻すら、少しく嫌味を覚ゆれば忽ち殺して其肉を食うと云う。又タスマニヤ人は其妻死する時は、其子までも共に埋めて平然たる姿なりと。濠洲の或る土人の如きは、其妻の死するや、之を山野に運び、其脂をとりて釣魚の餌となすと云う。
その若草という雑誌に、老い疲れたる小説を発表するのは、いたずらに、奇を求めての仕業でもなければ、読者へ無関心であるということへの証明でもない。このような小説もまた若い読者たちによろこばれるのだと思っているからである。私は、いまの世の中の若い読者たちが、案外に老人であることを知っている。こんな小説くらい、なんの苦もなく受けいれて呉れるだろう。これは、希望を失った人たちの読む小説である。
ことしの二月二十六日には、東京で、青年の将校たちがことを起した。その日に私は、客人と長火鉢をはさんで話をしていた。事件のことは全く知らずに、女の寝巻に就いて、話をしていた。
「どうも、よく判らないのだがね。具体的に言ってみないか、リアリズムの筆法でね。女のことを語るときには、この筆法に限るようだ。寝巻は、やはり、長襦袢かね?」
このような女がいたなら、死なずにすむのだがというような、お互いの胸の奥底にひめたる、あこがれの人の影像をさぐり合っていたのである。客人は、二十七八歳の、弱い側妻を求めていた。向島の一隅の、しもたやの二階を借りて住まっていて、五歳のててなし児とふたりきりのくらしである。かれは、川開きの花火の夜、そこへ遊びに行き、その五歳の娘に絵をかいてやるのだ。まんまるいまるをかいて、それを真黄いろのクレオンでもって、ていねいに塗りつぶし、満月だよ、と教えてやる。女は、幽かな水色の、タオルの寝巻を着て、藤の花模様の伊達巻をしめる。客人は、それを語ってから、こんどは、私の女の問いただした。問われるがままに、私も語った。
「ちりめんは御免だ。不潔でもあるし、それに、だらしがなくていけない。僕たちは、どうも意気ではないのでねえ。」
「パジャマかね?」
「いっそう御免だ。着ても着なくても、おなじじゃないか。上衣だけなら漫画ものだ。」
「それでは、やはり、タオルの類かね?」
「いや、洗いたての、男の浴衣だ。荒い棒縞で、帯は、おなじ布地の細紐。柔道着のように、前結びだ。あの、宿屋の浴衣だな。あんなのがいいのだ。すこし、少年を感じさせるような、そんな女がいいのかしら。」
「わかったよ。君は、疲れている疲れていると言いながら、ひどく派手なんだね。いちばん華やかな祭礼はお葬いだというのと同じような意味で、君は、ずいぶん好色なところをねらっているのだよ。髪は?」
「日本髪は、いやだ。油くさくて、もてあます。かたちも、たいへんグロテスクだ。」
「それ見ろ。無雑作の洋髪なんかが、いいのだろう? 女優だね。むかしの帝劇専属の女優なんかがいいのだよ。」…