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大阪の町人と学問
おおさかのちょうにんとがくもん
作品ID3037
著者内藤 湖南
文字遣い旧字旧仮名
底本 「内藤湖南全集 第九卷」 筑摩書房
1969(昭和44)年4月10日
初出大阪における講演、1922(大正10)年
入力者はまなかひとし
校正者菅野朋子
公開 / 更新2001-11-28 / 2016-04-20
長さの目安約 16 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 大阪の町人の學問については、豫て私の友人幸田成友君などが隨分精細な調べをされて、大阪市史にも載せられて居るから、私が茲に語らんとする所は、大阪の町人と學問との關係について、私一個の考察を申述べるに過ぎない。而も此等の事に關しては、懷徳堂で嘗て山片蟠桃の話をし、この次ぎに富永仲基に關する話をする約束があり、又嘗て土屋元作君が橋本宗吉に關して精しいお話があつて、此等の人々はいづれも大阪の町人學者であるから、茲には唯一般的な大體に亙つた樣な考へを述べて見ようとするものである。
 近世の大阪が開けて大都會となり初めたのは、言ふまでもなく豐太閤の時からであるが、豐臣氏は間もなく亡んだから、其後の大阪は徳川幕府の時代に發達したものである。徳川時代に於ける大阪は重要な場所であつたが、幕府の御膝下といふのでもなく、唯經濟的都市、商賣の都として重要な都市とせられ、而してこの商賣の都といふことが時の文化に貢獻した譯であつた。元和の元年に豐臣氏が亡んで間の無い間は、大阪には學問らしいものがあつても、それは徳川時代に於ける商賣といふ點から出發した學問ではなく、豐臣といふ武家によつて創められた大都會といふ關係に基く學問の風であつた。この頃に於て、今日では學界からも一般世間からも注意を逸して居るが、漢學の方では、かなり注意を拂ふべきものがこの大阪から出て居る。それは如竹散人といふ人であつて、この人は足利時代あたりから引き續いた宋學の正統を受けた人である。彼の薩摩の國の人で有名な文之といふ僧侶があつたが、是が四書に訓點をつけた元祖であつて、彼の藤原の惺窩の如きすら文之から盜んだものであるとさへ傳へられる位であるが、如竹は此の文之の學問を承けたのであつた。この如竹は大隅の屋久島の産で、文之點の四書を出版した事に於ても有名である。丁度明治大正の時代に於て大阪に漢學を復興したのは西村天囚君で、同君は種子ヶ島の生れで、その隣りから如竹が出て、而もその如竹は大阪に於て漢學を復興したとはいへない迄も、相當大阪の學問に貢獻したといふことは、甚だ不思議な因縁といはねばならぬ。如竹は間もなく大阪を引き上げ、天囚君は三十年も大阪に居つて愈[#挿絵]此度大阪を去ることゝなつた、これは西村君の學問が大阪に合はないのであらうか、私が考へるより大阪の諸君にお尋ねするのが至當であらう。
 幸田君の大阪市史によると、大阪に於ける初期の漢學者は大抵醫者を兼業して居つた。古林見宜でも北島壽安の如きも醫者兼業であつたといふが、是は大阪ばかりではなく一般當時の漢學者でも飯を食はねばならぬところから飯の種は醫の方でやる、そして食ふ心配なしに學問をやるといふところから兼業をしたもので、伊藤仁齋の頃迄其兼業が善いか惡いかといふことについて説があつた位であるから、大抵の漢學者は醫者を兼業して居つたといふことを知ることが出來る。然しな…

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