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山の彼方は
やまのかなたは
作品ID3109
副題常識とはどういうものだろう
じょうしきとはどういうものだろう
著者宮本 百合子
文字遣い新字新仮名
底本 「宮本百合子全集 第十四巻」 新日本出版社
1979(昭和54)年7月20日
初出「婦人画報」1940(昭和15)年4月号
入力者柴田卓治
校正者米田進
公開 / 更新2003-07-15 / 2014-09-17
長さの目安約 14 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 よく、あの人は常識があるとか、常識がないとかいう。生活の普通の言葉として、私たちが使っている常識というのは、どういうものなのだろう。
 世間普通に、誰でも知っているはずのいろいろなこと、判断の標準、善悪の分けめ、それらをひっくるめて私たちは常識といっていると思う。従って歴史の時代に応じて、常識の内容にもずいぶん大きな変化が起ってくる。今日私たちは、ギリシャの彫刻を非常に尊重して、たとえば、ミロのヴィーナスなどといえば、それこそ常識の範囲でも立派なものとしてうけいれられているのであるけれども、そのギリシャの彫刻にしろ、文芸復興までの暗い中世の時代には、常識がきびしい宗教の重しで窒息させられていて、たまに廃墟から現れる美しい古代の裸体像は、悪魔の白い鬼として恐怖された。いつでも、それぞれの形で私たちの常識は時代というものに大きい枠づけをされていることは争えない。二百年を今日いっときのなかで飛びこえることは個人の力でないのである。
 けれども、歴史と個人との関係は、個人にとって受身なその一面だけではなくて、一方で時代に影響されながらその反面では究極のところ歴史を動かす動力としてそれぞれの個人の時代への働きかけの具合が決定的な意味をもっているということもなかなか面白いところだと思う。この意味では私たちも今日の常識によってさまざまに支配されつつまた一面でその常識を発達させてゆく因子となっている。

 清少納言という人は当時の女流の文筆家の中でも才気煥発な、直感の鋭い才媛であったことは枕草子のあらゆる描写の鮮明さ、独自な着眼点などで誰しも肯うところだと思う。枕草子の散文として独特な形そのものも清少納言の刹那に鋭く働いた感覚が反映されたものであろう。その頃は宮廷の風流はほとんど様式として完成されていた時代で、艶なること、あわれなることとして審美的に評価されることのありようも大方はきまった内容がつけられていた。清少納言は彼女の感覚の発溂さから多くのところでそういう美感の常識を破って、いかにもさやかである。他の人が絵にも歌にもしていない色彩のとり合せや、日常瑣事の風情に眼をつけていて、色彩の感覚などは今日の洋画の色感でさえ瞠目させられるようなものもある。
 清少納言はそういう人であったけれども、人間のいきさつのことに関しては案外にもろく当時の平凡な常識にひき廻されている。知られている通り彼女は中宮定子の官女として宮廷生活をしていたのであったが、この中宮の生涯はあわれの深いところがあって、はじめの頃は華やかなあけくれで内外に大きな勢力もおよんでいたが、後には権力ある外戚藤原氏が奉った他の女人が当時の事情として自然重きをなして定子はやがて、桐壺藤壺などというように中宮のための住居としてあてられている奥の建物から、ずっと端近な今でいえば事務のようなことをする棟に侘住まわれた。清少…

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