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平将門
たいらのまさかど |
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作品ID | 3199 |
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著者 | 幸田 露伴 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「筑摩現代文学大系3 幸田露伴 樋口一葉集」 筑摩書房 1978(昭和53)年1月15日 |
入力者 | しだひろし |
校正者 | 林幸雄 |
公開 / 更新 | 2002-01-25 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 79 ページ(500字/頁で計算) |
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千鍾の酒も少く、一句の言も多いといふことがある。受授が情を異にし[#挿絵]啄が機に違へば、何も彼もおもしろく無くつて、其れも是もまづいことになる。だから大抵の事は黙つてゐるに越したことは無い、大抵の文は書かぬが優つてゐる。また大抵の事は聴かぬがよい、大抵の書は読まぬがよい。何も申の歳だからとて、視ざる聴かざる言はざるを尚ぶわけでは無いが、嚢を括れば咎無しといふのは古からの通り文句である。酒を飲んで酒に飲まれるといふことを何処かの小父さんに教へられたことがあるが、書を読んで書に読まれるなどは、酒に飲まれたよりも詰らない話だ。人を飲むほどの酒はイヤにアルコホルの強い奴で、人を読むほどの書も性がよろしくないのだらう。そんなものを書いて貰はなくてもよいから、そんなものを読んでやらなくてもよい理屈で、「一枚ぬげば肩がはら無い」世をあつさりと春風の中で遊んで暮らせるものを、下らない文字といふものに交渉をもつて、書いたり読んだり読ませたり、挙句の果には読まれたりして、それが人文進歩の道程の、何のとは、はてあり難いことではあるが、どうも大抵の書は読まぬがよい、大抵の文は書かぬがよい。酒をつくらず酒飲まずなら、「下戸やすらかに睡る春の夜」で、天下太平、愚痴無智の尼入道となつて、あかつきのむく起きに南無阿弥陀仏でも吐出した方が洒落てゐるらしい。何かの因果で、宿債未だ了せずとやらでもある、か毛武総常の水の上に度[#挿絵]遊んだ篷底の夢の余りによしなしごとを書きつけはしたが、もとより人を酔はさう意も無い、書かずともと思つてゐるほどだから、読まずともとも思つてゐる。たゞ宿酔猶残つて眼の中がむづゝく人もあらば、羅山が詩にした大河の水ほど淡いものだから、却つて胃熱を洗ふぐらゐのことはあらうか。飲むも飲まぬも読むも読まぬも、人[#挿絵]の勝手で、刀根の川波いつもさらつく同様、紙に鉛筆のあたり傍題。
六人箱を枕の夢に、そも我こそは桓武天皇の後胤に鎮守府将軍良将が子、相馬の小次郎将門なれ、承平天慶のむかしの恨み、利根の川水日夜に流れて滔[#挿絵]汨[#挿絵]千古経れども未だ一念の痕を洗はねば、[#挿絵]に欝懐の委曲を語りて、修羅の苦因を晴るけんとぞ思ふ、と大ドロ/\で現はれ出た訳でも何でも無いが、一体将門は気の毒な人である。大日本史には叛臣伝に出されて、日本はじまつて以来の不埒者に扱はれてゐるが、ほんとに悪むべき窺[#挿絵]の心をいだいたものであらうか。それとも勢に駆られ情に激して、水は静かなれども風之を狂はせば巨浪怒つて騰つて天を拍つに至つたのだらうか。先づそこから出立して考へて見ることを敢てしないで、いきなり幸島の偽闕、平親王呼はり、といふところから不届至極のしれ者とされゝば、一言も無いには定まつて居るが、事跡からのみ論じて心理を問は無いのは、乾燥派史家の安全な遣り方であるにせよ、情無…