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貧乏一期、二期、三期
びんぼういっき、にき、さんき |
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作品ID | 3225 |
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副題 | わが落魄の記 わがらくはくのき |
著者 | 直木 三十五 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「日本の名随筆85 貧」 作品社 1989(平成元)年11月25日 |
入力者 | 渡邉つよし |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2001-09-19 / 2014-09-17 |
長さの目安 | 約 11 ページ(500字/頁で計算) |
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第一期
僕は、僕の母の胎内にゐるとき、お臍の穴から、僕の生れる家の中を、覗いてみて、
「こいつは、いけねえ」
と、思つた。頭の禿げかゝつた親爺と、それに相当した婆とが、薄暗くつて、小汚く、恐ろしく小さい家の中に、坐つてゐるのである。だが、神様から、こゝへ生れて出ろと、云はれたのだから、
「仕方がねえや」
と、覚悟をしたが、その時から、貧乏には慣れてゐる。
僕の母親は東京にゐるが、父は、大阪にゐる。何んと云つても出て来ない。物好きな読者があるなら、僕の父の家を見に行くといゝ。さう、矢鱈に存在してゐる家ではない。大阪南区内安堂寺町二丁目、交番を西へ行つて、茶商と、おもち屋との間の露次を入ると、井戸のすぐ脇にあるのが、それである。二畳の玄関――それから、二畳半の奥座敷。それつきりである。
いくら金持でも、物好きでも、合せて四畳半しか無い家には、余り住むことを欲しないものである。父は今年八十二歳になるが、五十年間、古着屋をして、かういふ家にゐたのである。
だから、僕は、貧乏に慣れてゐて、貧乏の苦しさといふものを知らない。母親が、僕が、いくつの齢だつたらう――鶏卵を見せて、
「宗一、これが卵やで、御飯へかけて上げるから、たんと食べて、身体を丈夫にせんといかんで」
と云つて、熱い飯に、卵をかけてくれた。それから、間食をした記憶が無い。可成り大きくなつてから、八の日に立つ縁日に行く時二銭もらつた記憶がある。そして、何を買はうかと、縁日中さがして歩いて、何も買へないでとうとう戻つてきた。十二三からは、父の後方について、質屋だの、古着市へ行つて、父と二人で古着を背負つて戻つてきた。中学へ行くやうになると、毎日、油揚げの菜ばかりなので、
「湯葉が、たべたいな」
と、いふと、母が、湯葉の屑を、風呂敷に一杯買つてきてくれた。僕の弟も、この湯葉屑の弁当を、随分持たされたらしく見受けるが、僕のせゐであらう。その時分から、十歳年齢の下の弟が生れたので、これを背負つて、夕方、母の代りに、本町から骨屋町へ、惣菜を買ひに行つた。
普通なら、僕の家では、僕を中学へはやれなかつたにちがひ無い。弟を大学へやる時には、父の力がつきて、弟は給費生として大学を出たのだ。だが、父は、自分の落魄してゐるのを、僕によつて回復しようとしてゐた。それは、僕の祖父が、郡山藩の儒者だつたからであるし、僕が小学校に於いて、秀才だつたし、それから、四十の歳になつて生れた子だから、ひどく可愛いがつたのである。
そして、父は、僕の為に、二十五年間奮闘をしてくれたが、僕の奮闘も、今年で十七年になる。親の子といふものは、争はれぬもので、父も貧乏の顔色を見せるのは嫌ひであつたが、僕もさうである。それは貧乏人のひがみの一つであると同時に、又、意気でもある。隣りに金持があつたが、そこから何かくれると、きつと、それと…